2弾・1話 デコリ初めての現代生活


「残りの三分の一は夕食後にやろう」

 一伊達稜加(いちだて・りょうか)は今日の受験勉強である英語の問題集を閉じて、椅子に座ったまま伸びをした。学校から帰ってきた時はまだ空は青く雲もちぎれた綿のように浮かんでいたのが今はオレンジ色と青紫色に染まり、夕焼けの光がカーテンの隙間から入ってきて稜加の部屋を照らしていた。

 稜加の部屋は畳が敷かれた四畳半間で、机が置かれた窓側の対はふすま戸、机の右側には本棚、机の左側の壁は押し入れの戸、入り口近くの三段チェストにはハンカチやコロンなどの小物が入っていた。それから稜加の部屋にはもう一人の住人が稜加の部屋の本を読んでいた。といっても人間ではないが。

「稜加。ずっと部屋にこもって勉強しているけど、体を動かさないのって疲れない?」

 稜加が小学生の頃からある『モモちゃんとプー』の本を読みながら、ピンクと白と水色のリボン状の髪にリボンヘアと同じ色のワンピースにピンクのブーツにソーダブルーの眼をした三等身で高さ二十センチぐらいのキャラクター……正式には精霊のデコリが稜加に尋ねてきた。

「まぁ、受験勉強ってのは自分が行きたい高校に試験合格するための勉強だからねぇ。それにあと十日で春学期の中間テストもあるし。学校生ってのは勉強して正しい知識を得るのが仕事だからね」

 天然パーマのショートヘアに楕円型の眼と顔、やや細身の体躯に茶色のラインと白地のブラウスにデニムスカート姿の稜加は椅子を後ろに回転させてデコリに言ってきた。

(エルザミーナの世界から帰ってきて十八日目、デコリと暮らすようになってからもう四日目か……)

 今から十八日前、四月末の土曜日に稜加は弟の康志と妹の晶加と共に室内掃除を行い、稜加が祖父母の遺影と仏壇のある仏間の掃除をしていると"声"がして、その声が仏間の天井から聞こえてくると気づくと、稜加は天井裏にあった赤い風呂敷の包みを発見した。その包みにはピンク色の本と赤や青などの色付きの半透明の板がいくつか入っており、祖母の遺品だと知ると稜加が持っていったのだった。

 翌日の四月最後の日曜日に雨の中、稜加は昼食の材料を買いに行く途中、自動車に轢かれそうになるが、持ち歩いていた祖母の遺品によって金色の光に包まれ気を失うと、全く知らない国の城の部屋の中にいて、城の兵士に発見されると城主であるガラシャ女王によって、前に亡くなった王の連れ子の王女のスパイと疑われて牢屋に入れられ、呆然としていると祖母の遺品の本から精霊のデコリが出てきて、稜加を「利恵子」と呼んで現れたのだった。

 一度は牢屋に入れられた稜加だったが、城の兵士に王女の従兄弟サヴェリオに救出されて王女のいるアレスティア村へと連れ出されたのだった。アレスティア侯爵の姪でもあるイルゼーラ姫から稜加は自分が飛ばされた世界――エルザミーナの救済者だと聞かされる。

 精霊と自然エネルギーの残りかすが物質化したマナピースが存在する世界エルザミーナは古来からエルザミーナの一ヶ国に災厄が訪れる時、天から降りし金の光に選ばれた救い手が災厄を打ち払うと伝えられてきた。

 救い手の証は白地に虹色が入った人と精霊が合体した浮彫が入ったマナピースで、救い手は自分の一族を守護する精霊と一体化することで災厄を打ち払う力を得られるのだ。

 稜加もそのマナピースを持っていたことから、稜加も救い手となりデコリと合体する力を得て、イルゼーラとサヴェリオと共に仲間探しの旅へ出た。

 湖のある東の森の村で母親と四人の弟妹と共に生活し亡き父に代わって林業者の少女ジーナ=ベックと樹木の精霊ウッダルト、アルヴァ山で孤児のためマナピース工房の親方と先輩職人たちと共に働く青年エドマンド=フューリーと速さの精霊ラッション、レザーリンド王国の西部のオスカード市に住まう最年少のパシフィシェル=ウォーレスと水属性の精霊フォント。

 道中ガラシャ女王の追っ手たちが持ち主の人格と能力を別の物に移す〈ソウルコピー〉のマナピースで動く魔変人形(ミスティックプーペ)を使って稜加たちを捕らえようとしたり町に混乱を起こしたりとしてきたが、稜加たちは救い手の証のマナピース〈フュージョナル〉立ち向かってきたのだった。

 仲間が全員集まった時、稜加たちはレザーリンド王城へ向かい、魔変人形は錬金術で造ったマナピースで動くと知ると、ガラシャ女王はかつて王室に出入りしていた錬金術師の弟子で、しかも四代目レザーリンド王の姉の子孫だと判明すると、ガラシャがレザーリンドの王座を手に入れ、しかも地災でガラシャの一族も財産も失ったことで男やもめとなったロカン王に取り入ったうえ、ロカン王の病気を上手くごまかしていたと知るとイルゼーラの怒りは測り知れなかった。

 ガラシャ女王は自分の魔変人形を巨大化させ、稜加たち救い手を倒そうとするが、稜加とイルゼーラの作戦により魔変人形を動かすマナピースを破壊したもの、巨大魔変人形が停止と外側からの攻撃によって崩壊し、ガラシャは死んでしまった。

 稜加とイルゼーラはガラシャには生きて罪を償わせようとしたが、ガラシャが死ぬのは全くの予想外で悲痛を感じた。その後はイルゼーラが女王になり、稜加と他の救い手も国民から称賛された。

 エルザミーナの人間でない稜加は救い手の役目が終わると自分の世界へ帰っていった。稜加が飛ばされた時と同様、金の光に包まれた時にデコリもついていってマナピースを発動させる本――スターターの中に入っていたのだった。

 エルザミーナの世界から帰ってきた稜加は自動車事故で入院して三日間眠っていたことになり、家族や友人に気をかけてしまうが、亡き祖父のクリーニング店を継いだ父が母と一緒に働くようになってから、掃除や洗濯などの家事や弟妹の世話をしていた稜加は自分の事故の件で家族と話し合って、家事の負担が減って受験勉強に専念したり電車に乗るための訓練が出来るようになった。

 稜加がエルザミーナの世界から帰ってきてから二週間後、稜加が持っていたスターターからエルザミーナの世界に残ったはずのデコリが出てきて、一度は驚くもデコリと共にいられるようになったと喜んだのだった。


「でもねぇ、わたしの世界では精霊っていうのはお話だけの生き物だし、私の家にはお父さん、お母さん、何より手強い弟と妹がいるのよ。もし、お父さんたちがデコリのことを知ったら大騒ぎになっちゃうよ」

 デコリとまたいられるようになったのはともかく、家族や友人が精霊の存在を知ったらえらいことになると稜加はデコリに教えた。デコリはまん丸なソーダブルーの眼を稜加の視線に合わせた。

「何で? 稜加のパパやママやきょうだいや友達は精霊は嫌いなの?」

「そういう訳じゃないんだけど……。幽霊とか妖精とかが実際に出たら、デコリのことを私利私欲のために使おうとする悪い人間もいるのよ。もしデコリがそういう人たちに捕まったら嫌でしょ?」

 稜加はデコリにわかり易いように説明した。稜加の意見を聞いてデコリも現代世界の人間たちもいい人ばかりではない、と考えた。

「わかった。じゃあ、稜加の言うとおりにする」

 それを聞いて稜加はホッと一息を入れる。


 デコリが稜加の目の前に現れてから稜加の生活は一変する。まず食べ物は朝五時半頃に一度起きて、両親や弟妹に気づかれないように物音を立てないようにデコリを台所まで連れて行って昨日の夕食の残りを集めて電子レンジで温めてからデコリに食べさせる。デコリの朝食が終わると、稜加は使ったお皿を洗って自室に戻って朝七時までまた眠るのだ。

 朝の七時に目覚まし時計が鳴って稜加は布団からのそのそと這い出てパジャマから中学校の制服に着替える。更に通学用の3ウェイバッグと体操着が入った巾着を持って居間へ向かっていった。

「みんな、おはよう」

 稜加は平屋の一階建ての一番大きい部屋の父母の部屋兼居間に入り込む。長方形のちゃぶ台の上には今日の朝食のハムエッグと白米ご飯と味噌汁が置かれていた。

「おはよー、リョーねぇ」

「おはよう、りょーねーちゃん」

「おはよう」

 四歳下の弟・康志(やすし)と七歳下の妹・晶加(あきか)、父と母も食卓に着いてすでに食べてい

た。

「いただきます」

 稜加も朝食をはむはむ食べ、食べ終えると母が作ってくれた弁当を持って、康志と晶加もランドセルを背負って稜加と共に家を出る。

「行ってきまーす」

 五月も十日に入ろうとしているこの頃は陽気で暖かく、空の色は仄かな白とオレンジがかったピンク色で雲はない。電線や庭木にはスズメやムクドリが泊まり、瓦屋根と格子窓の和風や三角屋根と出窓のある洋風の家屋がいくつも並び、道路では自転車通学している織姫中学校の生徒や職場へ向かう乗用車を見かけた。

 一伊達家から北へ歩いた先が屋上がプールになっている織姫東小学校で康志と晶加を送り届けると、稜加は東小から西へ八分先の織姫中学校へ歩いていった。六歳から十二歳までの小学生が稜加とは逆方向に小学校へ向かう中、稜加のバッグから声がする。

「稜加、どこへ行くの?」

 デコリだった。デコリはバッグの隙間から顔を出すと、他の人に聞かれないようにして稜加に訊いた。

「あれ、夕べ言ったでしょ。わたしは月曜日から金曜日までは学校で、デコリを家においてったら心配だから連れていく、って。あとお弁当は食べないでね。わたしが困るから」

「わかった。お弁当は勝手に食べたりしないよ。それで、デコリは学校にいる間はどうしたらいい?」

「できればバッグの中にいてね。外に出たら学校中が大騒ぎになるし。外に出たかったら、わたしの言う通りにしてね」

「わかった。でも稜加の世界に精霊はデコリだけ、ってのは寂しい。でも稜加がいないのはもっと寂しい」

 デコリの言葉を聞いて稜加はデコリが一度自分の世界に来ていたことを思い出す。

 稜加の亡き父方祖母、菅生利恵子(すがうりえこ)は今から五十五年前、十五歳の時にエルザミーナの世界に飛ばされて、エルザミーナ内のある国の災厄を打ち払うためにまぬかれた。エルザミーナにやって来た利恵子ははぐれ精霊だったデコリと出会い、同じくエルザミーナの天の光に選ばれた仲間たちと共に災厄を打ち払った。

 現代世界からやってきた救い手は災厄を打ち払った後は、自分の世界に戻る運命(さだめ)で利恵子も現実世界に戻ることになったが、利恵子と一緒にいたいがためにデコリもついてきたことには知らず、しかもエルザミーナの世界では生活のために使われるマナピースの一つ、眠りの〈スリーピング〉がスターターに入れっ放しだったために、デコリは五十五年間も眠り続けていたのだった。利恵子は大人になって結婚して子供も孫も生まれ、やがて稜加が十歳の時に腎不全で亡くなったことも知らずに。

 稜加は三階建ての校舎と校庭と体育館のある織姫中学校に着く。織姫中学校は男子は黒地に黄色いラインの詰襟とスラックス、女子は黒いブレザーに赤いリボンタイ付きの白いシャツと黒白千鳥格子のスカートの制服を着ていた。

 三階にある三年四組の教室に入り、教室の中では先に来ていた生徒たちは単語カードをめくっていたり参考書を読んだりしていた。

「稜加、おはよう」

 教室に入ってきた稜加に声をかけてきた者がいた。稜加より十センチ近い高い背丈にポニーテールに切れ長の眼の少女である。

「よっちゃん、おはよう。クラブの朝練は終わったの?」

 バレーボール部員の百坂佳美(ももさかよしみ)であった。稜加のバッグの中にいるデコリは隙間から佳美を目にして、気づかれないようにじーっと見つめた。

 やがてチャイムが鳴って担任の大沢伸夫(おおさわのぶお)先生が入ってくる。生徒たちは各々の席に着いて、あいさつをする。

「起立、礼、おはようございます」

 学校は担任の先生が来てから始まり、その後は時間や曜日ごとに変わる授業が四時間続き、昼になると昼休みになって生徒たちは昼食を採り家で作ってもらった弁当やコンビニで買ったおにぎりパンを食べていた。教室で食べたりする人もいれば校庭近くのベンチや中庭の東屋で食べる人もいた。

 稜加は弁当と一緒にデコリをこっそりとバッグから取り出して、弁当を机の上に置きデコリをひざ上に乗せて一緒に食べる佳美や他のクラスメイトにバレないようにおかずの一切れやご飯の一つかみをデコリに分け与えていた。

 昼休みが終われば五時間目六時間目の授業に入り、班ごとに学校内の指定場所の掃除、帰りのHRに入って生徒たちは五時間授業の日ならクラブ、六時間授業の時は帰宅していった。

 佳美や同じ近所に住む玉多くんがクラブの日は稜加は弟妹を迎えるためにクラブに入っておらず、一人で織姫東小学校へ向かっていって康志と晶加を迎えて三人で家まで帰る流れであった。

 稜加がエルザミーナの世界で冒険をする前までは両親が帰ってくる時間までの食器洗いや洗濯物取り込みといった家事は稜加の役目だったが、稜加がエルザミーナの世界から帰ってきた後の事故と入院の件で、また稜加も受験生なのもあって、家事の大方は康志が引き受け母が炊事を晶加が洗濯物畳みを担うことになった。

 稜加は家に入って手洗いとうがいを済ませて自室で制服から普段着に着替えてデコリを通学バッグから出した。

「あー、じっとしてたから体こっちゃった。でも学校って色んな人いて、いろんなことを勉強してるってのはわかったよ」

「うん。学校では読み書きや計算とか、地図の読み方や歴史の内容とか学校を卒業して社会に出たら困らなくてもいいように勉強するからね」

 稜加は着替え終わると今日やるテキストを机の近くの本棚から出して開いた。デコリは稜加が受験勉強をし始めたのを目にして、自分はどうしようかと突っ立っていると、稜加が椅子を後ろに回してデコリに言ってきた。

「暇だったら本を読む? これは挿絵がたくさんあって感じも少ないから読めるよ。あ、デコリはエルザミーナの精霊だから日本語は読めないか。だけどわたしが勉強をしている間は本を読んでて」

 稜加は本棚の下あたりから自分が小一の頃から持っている童話の本をデコリに渡した。表紙は傘を持った女の子の写真で『ちいさいモモちゃん』と題名が書かれていた。

 稜加は再びテキストに向かい、デコリは本を読み始める。デコリは本を最初は一ページずつペラペラめくった後、もう一回読み返して二、三回も読み直した。

「あっ、もう五時かぁ。小腹が空いたからおやつを食べようっと。……デコリ、その本読めた? エルザミーナの文字とは違うとはいえ」

 稜加がデコリに尋ねると、デコリは「うん」と答えた。

「エルザミーナの方にも似たような字があったのを思い出したの。あと利恵子から利恵子の世界の文字を教えてもらったのも」

「あ、そうなんだ。今からおやつを持ってくるから待っててね」

 稜加は椅子から立ち上がると台所に行って冷蔵庫から牛乳をグラスに注ぎ、戸棚からチョコチップクッキーの箱を探ってみた。クッキーのプラケースの二つは空で三つ目には五枚が収まっていた。稜加はクッキーの箱を燃えるゴミに入れプラ容器は燃えないゴミの箱に放り込んだ。

 稜加は自室に戻って畳の床に座ると小皿に乗せたクッキーをデコリと分け合って食べた。

「おいしーっ。稜加の世界のお菓子って他にもあるの?」

「うん。プリンにゼリー、タルトやパイ。でも一番美味しいのはデコレーションケーキかな。柔らかスポンジにクリームやチョコレートやイチゴとかのフルーツを使っててさ……」

 二人で二枚ずつ食べ合っていると、小皿のクッキーが一枚だけになった。

「どうしよう、もっと食べたいのに」

 デコリが呟くと、稜加がクッキーを二つに割った。

「はい。一つしかなかったら半分で分け合うのが地球でのお約束なんだよ」

「わぁ、ありがとう。稜加、やっさしー」

 デコリはクッキーの半欠けを受け取ると嬉しそうにかじった。

 長いこと一人だったデコリはもう大丈夫だろう。かつてのパートナーの利恵子はもういないが、利恵子の孫の稜加がいてくれるのだから。