エヌマヌル大陸の祖国から十二日かけて、ウォルカン大陸の中枢にあるレザーリンド王国にやって来たギラルドと精霊フーモックは初めて肉眼にするレザーリンド王国の風景に心を震わせた。 レザーリンド王国の東にあるキフェルス州の最東端は農業区だった。これから夏に入ろうとしている今の季節は麦やキビや粟などの穀物畑は風によって穂が揺れて、水辺に近い所にある水田には米の穂が植えられ水田の水にはヤゴやカワニナ、フナやハゼなどの稚魚といった水棲動物が住んだ水の中を泳ぎ、果樹園には夏の果物となる夏ミカンや桃、杏やプラムなどの木々が植えられ、麦藁帽をかぶった農家の女性たちが害虫除けの薬液を木の苗の時に塗ってから植えていた。 農業区の家屋は木の板とレンガもしくは漆喰を使った壁と藁葺き屋根で一度漆喰で固めてから青や黄色などのペンキで上塗りする家もあった。また川には水車小屋があり、水車の力で粉を挽く粉挽き屋の物だった。 農業区の人々は男も女も老いも若いも鍬や鋤の付いた土のマナピースで動く耕運機で土を耕して、ロバや牛をつないだ荷車に藁や木材を乗せて移動し、精霊たちも水まきや雑草むしりをしている。 畑や果樹園は時々慣れない匂いもあるが、それは牛などの家畜のフンと泥を合わせた肥しの匂いだった。 「うーん……。この国にたどり着くまで、いくつかの農家や林業地を見て回ってみたけど……、暖かいから肥し臭いな」 フーモックが内陸国の夏近い畑の匂いを嗅いで口を曲げる。 「しゃあねぇだろ、農家ってこんな所だし。てか炎の精霊が匂いに敏感っておかしいだろ」 ギラルドがフーモックに言った。ギラルドはエルザミーナ界の西にあるエヌマヌル大陸の中にあるバハト共和国の片田舎ギュルバという村の出身だ。ギュルバ村は絨毯の製造販売で知られる土地で、綿花が主な生産品である。 ギュルバ村は男が農業・林業・狩猟・漁業・製鉄業など中心で、女は絨毯の紡績や機織り、染色を嗜みとし、男と同じく農業や林業、学識があれば教師や医者として働く人もいる。 ギラルドは父と兄は大工として働き、姉は絨毯技術の嗜みと国内外の布を扱う反物業者の元で仕入れ係となって働き、母は絨毯染物師、妹はまだ幼いので中等学校に入ったばかりだった。 ギラルドもギュルバ村の住人として手に職をつけ、次男なので娘のいる家に婿入る――筈だった。 中等学校を卒業して間もなく、ギラルドは父と兄が大工ならば彼は指物師が相応しいだろうと村内の指物師に弟子入りして、そこで見習いのちの奉公したのは一年だけ。よその国へ行って王族の婿になると親兄弟に告げたのだった。 「そんな夢みたいなこと言ってねぇで、指物師として働け」 父も兄もギラルドにそう言ったが、ギラルドは王女か女王と結婚すると主張する。 「それじゃあよその国で出稼ぎさせるって、ことにしておけばいいじゃないですか」 穏健な母が父をなだめた。だが現実思考の父は反対した。 「だめだ、だめだ。ただでさえ若い娘が出稼ぎした国で予定とは違った形で娼館に入れられるっていうのに。だからといって男になると人使いの荒い企業で社畜にされるんだ。おれがギラルドにそう言っているのは、ギラルドに危険な道を歩ませない為に――」 厳しい父は頑として許さない。エヌマヌル大陸の約半数の国では父長制度が主で、妻や子供や弟妹は父や兄の許しを得ないと希望の職業や学校や結婚にありつけられないのだ。しかし――。 「行かせてやれ、ファジム……」 別室からしゃがれ声が聞こえてきた。父方祖母のグルカだった。祖母のグルカは寝たきりで体も弱っていたが、頭は衰えていなかった。 「母さん! 母さんがそんなこと言っていいのか!?」 父は自分の老母がこんなこと言うなんて、疑問に感じつつも尋ねてきた。 父方祖母のグルカは夫である祖父を早くに亡くし、父とその弟妹である叔父叔母、三人の子を女手一つで育てた〈肝っ玉おっ母〉であった。その為父と小父には男としての責任を教え、叔母に「女子でも自分の意志を貫け」と教えたのだった。叔母は移動劇団の花形女優となり、独身子なしでありながら若手を育てる立場となった。 祖母は息子夫婦と子供らが集まっている居間の隣の自身の寝室にいた。元々祖母の寝室と居間は壁で遮られていたが、数年前に祖母が寝たきりになってから父が介護しやすいように居間とつながる扉を付けたのだった。 「ばあちゃん……」 ギラルドは祖母の部屋の扉を開けて、自身の夢に背中を押してくれた祖母に声をかけた。 祖母の部屋は大人五人が横になる程の広さで、窓にはオリーブ色の麻のカーテン、壁は漆喰で若い頃の写真の額や湖の絵が掛けられている。木張りの床上には古びた木のタンスと引き出しが四つ重なったチェスト、三段の本棚と自身が寝ているベッド、その脇には介護する人が座る円い腰かけ。天井には灯りをともす〈グロウアップ〉のマナピースで着く笠型のランプ。 祖母のグルカは白髪がもつれた糸かせのようで、ギラルドと同じアーモンド形のオレンジブラウンの目、肌はしわとしみだらけで顔も鬼女のように見えるが、決して性悪という感じではなかった。 「ギラルド、お前が王女か女王と結婚したがっているのは、決して地位や財産の為ではないってのは、わたしでもわかる。お前が幼い時に王侯貴族と携わったことがあるから、そのこだわりがあるんじゃろう」 「ばあちゃん……」 後から父も入ってきて、グルカに声をかけてくる。 「母さん、孫の望みをすんなり聞き入れるのは甘やかしと同じだ。いや、一般人が王侯貴族と結婚するのは、高嶺の花を手に入れるのと同じ位……」 「いいや、ギラルドには高根の花を手に入れられる可能性を秘めている。お前は同じ麓の草でいい、と言っているが、与えられた方は満足しない」 グルカが息子のファジムにこう言った。 「わかったよ。母さんがそう言うんじゃなぁ……」 頑固な父も次男の要望を受け入れて、ギラルドは旅立っていったのだった。ギュルバ村を出てから半日後に出会ったスピアリーのフーモックは元々、炭焼きの所にいたスピアリーだった。主人の炭焼きの老人が亡くなってしまって一人でいる処をギラルドと出会ってついていったのだった。 レザーリンド王国に着いたギラルドとフーモックは農業地区を渡り歩いてから町へ向かうことにしたのだった。 * 現実世界の日本栃木市の南にある県立陽之原高校。節季は雨の日が多かった六月から本格的な暑さの多い七月に入った。陽之原高校春学期の期末試験が終わり、更に夏休みに入る前には一年生は臨海学校へ行くことになり、稜加のクラスでも盛り上がっていた。 「臨海学校は私服参加だって。新しいTシャツ持っていこうかなー」 「おれ、肝試しのお化けやりたいな」 「海水浴は苦手だけれど、珍しい貝殻あったら持って帰ろうっと」 稜加は織姫中学の二年生の時も臨海学校に行ったことがあり、その時は茨城県北部の海辺の町だった。デコリと出会う一年近く前の時は、毎日の家事や弟妹の世話を忘れさせてくれたのが学校行事の文化祭と宿泊旅行だった。 (だけど今はデコリがいるからなぁ。期末試験の時にも二週間以上エルザミーナに預けていたから連れていくか。デコリにも日本の海を間近で見せてあげたいしね) 陽之原高校一年の臨海学校の場所も茨城県だった。ただし中二の時と違って茨城県の南東の場所である。 クラスの大方が夏休み前の臨海学校で浮かれている中、一人だけ浮かない顔をしている女子がいた。その子はB班の女子でやや太めで丸顔、ぼさぼさの髪を軽くくくっただけで下がり目の唐井達子(からい・たつこ)だった。 唐井達子は陽之原高校のある地域の西隣の町に住んでいて、一年服飾科の同期の中では印象の薄い女の子だ。授業は真面目に受けているけど、同じ班の人とあまり絡むことなく一人でいることが多い。決して他の人と険悪という意味ではなく、一人の方がやりやすい感じであった。 (唐井さんって、臨海学校に行きたくないのかな) 学校行事は基本は生徒が病気やケガ、自宅での法事の時期と重なれば欠席とみなされるが、個人の意思による拒否は認められない。唐井さんは何が理由で臨海学校に行きたくないのかは、本人にしかわからない。 その日の夜、高校の寮で稜加は同室の千塚丹深に唐井さんが臨海学校に行きたくない理由がどうやったらわかるか訊いてみた。 「学校行事なんて、やりたくもない人もいるんだよ」 丹深は就寝に十分前に部屋の左側ロフトベッドの上で女子向け文庫を読みながら返事をした。稜加は臨海学校で必要な道具のチェックをしていた。着替えや体操着、水着や文房具などと色々な物が必要である。 「でも病気やケガでない限り、臨海学校を休めないっていうし」 稜加は丹深の曖昧な返事を聞いて、もっと唐井さんの臨海学校に対する気持ちをどうやって知るかの方に偏ってしまう。 「稜加ちゃんはこの間のケガが治っているからいいでしょ」 丹深の言う通り、稜加のエルザミーナでの降霊術に行く為につけた手の傷はすっかり治っていた。 「やっぱり本人に尋ねる方がいいのかな……」 「唐井さんが答えたくない頑固ってこともあるでしょ」 確かにそうだ。稜加は高一になって四ヶ月しか経っていないのに、唐井達子の性格を把握できていなかった。だけども稜加は唐井さんの臨海学校に対する本音が聞きたかった。お節介かもしれないけれど、正当な欠席以外は全員で過ごした方がいいと思ったのだった。 |
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