「それじゃあ、テスト期間が終わるまで家には帰れないから。うん、またね」 陽之原高校の学生寮の階段下で、織姫町の母に電話で伝えると携帯電話の電源を切 って事務室の生徒携帯預かり箱の中に入れて、稜加は一息を吐く。 学校の寮では生徒の携帯電話は外出時の所持しか認めておらず、また試験中も教師 が預かるルールで家に電話する時は寮の監督教師の許可をもらってからになってい た。 「まさかテスト期間の時だけデコリをエルザミーナに預けたなんて言ったら、晶加が 切れるからなぁ……」 五月の連休後は試験勉強期間であるため、稜加はエルザミーナの仲間に相談した 処、デコリをエルザミーナのイルゼーラかサヴェリオに預かってもらう案を手に入 れ、稜加の最初のテストが終わったらデコリを迎えに行くと決めたのだった。学校休 みの土日は自宅に帰省することになっていたが、テスト勉強があるから、と理由付け て隠したのだった。 服飾科での専門科目や中学校から引き継がれている数学や保健などはともかく、情 報Tや言語文化や生活産業といった高校から行う科目の勉強もあるので稜加は同じ組 同じ班の清音にも教えてもらっていた。 デコリがいないと勉強や学校生活がはかどったけれど、一度目の旅の終わりからず っと過ごしてきたデコリがいないと違和感も抱いた。一年も過ごしていれば情も湧い てくるけれど、また亡き祖母のパートナーなのもあって寂しい時は寂しいけれど、今 は試験に打ち勝つことだけを考えた。 稜加が高一最初の試験勉強の時、デコリはアレスティア侯爵の元で身を寄せること になった。アレスティア侯爵家にも守護精霊トルナーがいて、デコリはトルナーやア レスティア村に住む精霊と遊んだり、侯爵家のメイドの手伝いや村人と一緒に狩猟漁 業へ行ったり、王城を訪ねていってイルゼーラと精霊のアレサナと一緒に国内の視察 に出向くこともあった。 他にもウッダルドやラッションやフォントの所へ行って遊ぶこともあったけれど、 稜加の高校のテスト期間が終わるまでエルザミーナ内のレザーリンド王国に滞在して から六日が経過した。 アレスティア侯爵邸のバルコニーでデコリはトルナーと一緒に温暖な春の昼にたた ずんでいた。アレスティア侯爵の屋敷は菫色の屋根に灰色の壁の村で一番大きな邸宅 で、庭園や飛行艇の収容庫もある。 「やっぱり稜加のいる世界に帰りたいよ……」 デコリは呟いた。隣にいたトルナーが脱力しているデコリを目にして気遣った。 「大丈夫か? 侯爵に頼んで次の出かけ先に行かせてもらうか?」 「うん、だけど……。エルザミーナに戻ってから、レザーリンド王国の中だけ出かけ ているから飽きちゃった……。エルザミーナの、まだ行っていない所に行きたいな ぁ」 デコリはこう言ってきた。デコリは生前の利恵子との旅を終えて、利恵子が自分の 世界に戻ることになった時にこっそりついてきてスターターの中に入るも、眠りのマ ナピース〈スリーピング〉が入れっぱなしだったために五十五年間もの間、両方の世 界の様子を知ることなく過ごしてきたのだから。 「だけども勝手にレザーリンド以外の国に行ったら、侯爵もサヴェリオも女王もパニ ックになっちまうからなぁ……。心配かけさせたくないんだよ」 トルナー思い悩んでいた時だった。空の遠くから一羽の白い雁が飛んできて、侯爵 邸のバルコニーにいるデコリとトルナーの方に寄ってきて声をかけてきたのだった。 「お二方、こんな所で何やっているんですか?」 雁はこんなに晴れていて暖かい日にバルコニーでくつろいでいる二体の精霊を目に して尋ねてきた。 「なぁ、雁さん。おれとデコリは国の外に行ってみたいんだけど、他の国のことを知 っているか?」 トルナーが雁に訊いてみた。渡り鳥なら他国のことを知っていそうだからだ。 「ああ。そしたらここかた西へまっすぐ行ったオリエスナ大陸の中にある〈紅い砂 漠〉辺りが見ごろじゃないですか? 砂漠っていうけれど、あそこはそんなに熱くない 地域なんでさぁ」 「その〈紅い砂漠〉オリエスナ大陸のどこにあるの?」 デコリに訊かれて雁は翼を組んで思い出そうとする。 「確か、あっしの記憶によれば大陸の東の国の中にある岩山にあったと思いますね ぇ。夕暮れの時なんか最も赤かったんです」 雁の話を聞いてデコリとトルナーは顔を見合わせる。 「どうする?」 「行きたい……。でも、他の人に心配をかけさせたくない」 デコリに行きたい気持ちと他者に対する責任がぐらついた。その時、トルナーがあ ることを思いつく。 「そうだ! 君の協力を得たいんだ!」 トルナーは雁に視線を移した。 「何? オリエスナ大陸に行きたい、だと?」 立派な家具のある書斎で身辺の町村との共同公務の報告書を書いているアレスティ ア侯爵がトルナーとデコリの嘆願を聞いて、思わず万年筆の手を止めてしまう。書斎 は机の背の方は窓で春の今は日差しを弱める緑色のカーテンを使い、両壁には備え付 けの本棚で専門書や地図などに分類されていて、出入り口から見て右の壁には扉が付 いていて隣の会議室とつながっていた。机の上にも羽ペン立てやインク壺、手書き原 稿の清書に使うタイプライター、また古風な置時計が置かれていた。 アレスティア侯爵は栗色の髪に水色の眼とたくわえたアゴヒゲと雄々しい体つきの 壮年男性で、春の服装は薄手のベージュのジャケットと薄黄色の中シャツ、灰色のズ ボンの姿である。 「うん。さっきバルコニーに迷い込んできた雁が奥さんや子供たちとはぐれてしまっ たから、おれが送りたい。おれは風のスピアリーだから。風読みによる移動はでき る」 「お願い、侯爵。必ず帰ってくるからぁ」 デコリも侯爵に手を合わせて頼み込んだ。 「しかし、行きはともかく帰りは二人だけでレザーリンドに帰れるのか?」 侯爵はそれが不安だった。精霊がたった二人で国外や他の大陸に行くなんて、危な っかしいからだ。どんな危険があるかなんて、わからない。 「お願いだよ、侯爵。もし稜加が思っていたより早く迎えに来てしまっても、上手く 対応してくれよ」 「侯爵〜」 侯爵はハァ、と一息ついて二人の精霊の頼みを聞き入れてあげた。 「わかった。行っておいで。『かわいい子には旅をさせよ』だ」 こうしてデコリとトルナーは雁の案内により、オリエスナ大陸の〈紅い砂漠〉へ旅 立つことになった。トルナーは風に乗り、デコリは雁の背中に乗ってレザーリンド王 国内のアレスティア村から出発した。 空は快晴で白い雲が浮き、緑の森や草原、畑や果樹園は継ぎ合わせのように見え、 家や建物の空から見ると色と大きさの違うブロックのよう。川の曲線で山から流れて いる川、湖とつながる川と地上から見たのと全く違った。 鳥も山を旋回するトンビ、北へ向かう白鳥の群れ、人里から離れた岩山では崖に巣 を作るワシが森で狩ってきたイタチを雛たちに与えていた。 町の方に入ると飛行艇が空を駆け、プロペラのあるジャイロ船がバタバタと音を立 てており、その下はレザーリンドの王都と城で二人と一羽は馴染みのある町やいくつ ものの村や町や森を越えて、太陽が真上に上がる正午に入ると、雁は飛ぶのを止め て、少しずつ降下しながら一ヶ所の河原に着いて羽休めした。 それは小川で水流は緩やか、川原の草にはシロツメクサや赤紫のレンゲ、黄色いタ ンポポなどが咲き乱れていた。 「いくら鳥でも長く飛ぶことは出来ないんでね」 雁は水辺に入ると翼を畳んで嘴で中を探って餌になる小魚を捕まえて食べだした。 小川の水は澄んでいて川底には水草が揺れ、ザリガニやフナなどの淡水の生き物、ゲ ンゴロウやヤゴなどの水棲の虫もいた。 「おれたちも食べよう」 「うん。〈フードグレイス〉があるからね」 トルナーとデコリも川原に座って、稜加が以前エルザミーナに訪れた時にイルゼー ラ女王からもらったマナピース〈フードグレイス〉を取り出し、更に精霊用のスター ターを取り出して、はめ込んで発動させた。 精霊用のスターターは人間が使う物より小さく、マナピースははめ込み枠二つとセ ンサーしかない簡素な型だが、効果は発揮できる。デコリのスターターは数日前にイ ルゼーラから貰ったものだ。 デコリは白とピンクのスターターに〈フードグレイス〉のマナピースをはめ込ん で、センサーに手を触れる。すると白煙と白い発光と共に食べ物が出てきた。 小ぶりの赤い格子柄のテーブルクロスの上に白い食器に盛られた緑野菜のサラダ、 白いバター付きパンの薄切り数枚、ポテトポタージュ、今が旬のウグイのフリッタ ー、ローストチキンレッグ二本、フリッターに使うバルサミコ酢入りの玉ねぎソー ス、ローストチキン用のグレービーソース、透明なグラスに入った薄黄色のレモネー ド、デザートも苺とサクランボでよく熟れていた。 「いただきまーす」 二人の精霊は〈フードグレイス〉のマナピースから出てきた食べ物にありついた。 デコリとトルナーが半分ほど食べつくした時、一人の老女がよろよろと歩きながら、 二人と一羽のいる川原に寄ってきた。 その老女は軽く背が曲がっていて、灰色のざんばら髪、眼は腫れぼったいで虹彩が 赤くて鼻はフクロウの嘴のようで口も横長でアンコウみたいで、しわとしみだらけの 顔と腕脚、服装も春だというのにえんじ色のすり切れたスカーフを頭巾にして、、つ ぎだらけの毛皮のコート、よれよれの茶色のセーター、長いスカートも厚手で毛玉が 浮いていて、靴も羊毛材の古ぼけたブーツである。 「きっと貧乏過ぎて春用の服がないんだよ」 老女を見たトルナーが耳元でデコリに囁いた。 「すみませんがそこの精霊さん。わたしに食べ物をくれませんか?」 老女はしゃがれ声を出し、デコリは老女を見て毎日まともに食べられていないと知 ると、自分たちが食べていた物を差し出した。 「いいですよ、おばあさん。デコリたちは充分食べたから……」 「おお、ありがとう。こんな立派なごちそうは久しぶりじゃ」 そう言って老女はデコリとトルナーが食べていたパンや魚やスープをガツガツと食 べだした。 「おい、デコリ。すんなりと譲っていいのかよ」 「デコリには〈フードグレイス〉があるからいいの。お腹空いたら、その時に出せば いいじゃないの」 老女が食べている間、トルナーとデコリは老女に聞こえないように小声で話し合っ た。 「トルナーはさ、よく『働かざる者、食うべからず』って言っているけれど、稜加の 世界では食べ物や服や財産を分け合うのはよくあることなんだよ」 デコリは現実世界での常識である〈分け合い〉や〈共同〉をトルナーに教えた。レ ザーリンド国では本当に困っている者しか助けず、困っている者が自分で稼げるよう になったら後は本人の義務として契約を打ち切る。中には病人や障碍者のフリをし て、公共の支援金を騙し取っている輩もいるが、そういう者は補助金不正法の罪にな り、刑務所で一〜二年の懲役が科せられる。 「ああ。美味しかった。久しぶりにこんなに食べられたのは。そうじゃ、お礼にコレ をあげよう」 そう言って老女はデコリとトルナーにマナピースをコートのポケットから取り出し た。超属性のマナピースらしく、紫の透明で向かい合った人間が口を開けて話し合う 浮彫が刻まれていた。それも二枚。 「おばあさん、このマナピースを売ればそれなりのお金が入って三ヶ月は余裕だった んじゃないのか?」 トルナーがこう尋ねてくると老女は首を横に振る。 「いや、わたしにはこのマナピースは死んでも売りたくなかったんじゃ。わたしには 身寄りがなく、それに不治の病であと一年ぐらいしかもたないのじゃ。じゃからこの マナピースを大事に使ってくれそうな若者か精霊に委ねたかったのじゃ。では、さら ばじゃ」 そう言って老女は再びよろよろと歩き出していった。 「そうかぁ、あのおばあさん。もう寿命なのか」 「だったらあのおばあさんの言葉通りに、このマナピースをあたしたちが持っていよ うよ」 トルナーは老女の事情を知って内心老女に対しての失礼さを恥じて、デコリは老女 の為に老女がくれたマナピースを所持することにした。 やがて雁も羽休めが終わるとデコリと背に乗せて、オリエスナ大陸の〈紅い砂漠〉 へと羽ばたきだして、トルナーも風に乗って目的地へ向かっていった。 |
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