安里は真っ白な光の中を漂っていた。哀しみも寂しさも、恐れや絶望といった負の感情が一瞬でなくなったような感覚だった。 「アンフィリット」 安里の本当の名前であるアンフィリットを呼ぶ声が聞こえたので、安里はまぶたをゆっくりと開いて視点を定める。安里の目の前には一人の少女が目の前にいたのだ。 年齢は人間でいうと十三、四歳ぐらいで長い姫カットの黒髪に透き通った白い衣の下に桜色の着流しと薄い藍色の袴、頭に金のかんざしとはじめとする金細工と瑠璃玉のアクセサリーを身につけていた。 「あなたは……」 「〈禍を起こす者〉です。二つの世界の住人の多くがあなたのよびかけに応えて人間と妖精の想う気持ちが連なって、哀しみや憎しみが浄化されて、この姿になったのです」 それを聞いてアンフィリットは〈禍を起こす者〉もとい古代地球の妖精を救えられたと胸をなでおろしたのだった。 「人間の世界と妖精界ミスティシアの最高神の恩恵もあって、わたしは祈りと平和の神になりました。アンフィリット、ありがとう。わたしは平和を願う生命のために尽くします――」 すると祈りと平和の神は宙に舞いあがって、アンフィリットの方はだんだんと下の方へ沈むように離れていった。また意識が遠のいていった。 「安里! 安里!」 誰かの呼びかける声で安里は意識を取り戻した。すると安里はアクアティックファイターの姿からバラ紅の髪に薄紫色の尾ひれの人魚になっていて、周囲にはアクアティックファイター姿の炎寿と比美歌と法代。それからミスティシアのマリーノ王国にいる筈の安里の実両親であるムース伯爵とエトワール夫人、妹で赤子のラルーシェ。ムース伯爵は金髪に紫の眼、銀色の鱗と尾ひれを持つ暗い灰色の衣を纏った男人魚で、エトワール夫人は深いピンク色の髪に水色の眼に紫の鱗とひれを持つ菫色の簡易ドレスをまとった人魚、赤子のラルーシェは金髪に銀色の鱗とヒレの下半身で紫色の眼をしていた。 他にも安里と同年代の人魚スエーテやアザラシの皮をかぶったローン族のクーレー一家。海藻の衣をまとうウィーディッシュ族や海鳥の翼を持つセイレーン族や他多くの水妖精。海岸には徹治と毬藻とブリーゼとジザイ、他に森や砂地などの陸妖精、空にもトンボや蝶などの翅を持つ妖精やコウモリの翼を持つ妖精もいたのだ。 「お父様、お母様、みんなどうして……」 アンフィリットはどうしたことかと尋ねてみると、ムース伯爵が答える。 「お前の、強い想いがミスティシアの妖精を呼び寄せてくれたんだよ」 アンフィリットは自分の周囲を見まわした。こんなに多くの妖精が集まってきたことに。空と海の色は青黒い不吉さはなくなり、白じんでいる青い空と紺青の海が白波を立てていた。 やがて安里の願いを聞き入れてミスティシアから駆けつけてきた妖精たちは次々に役目を果たしたからと、次々にミスティシと人間界に通じる門に戻っていき、あっという間に妖精がいなくなった。地球の人々はこの様子に驚いていたが、世界最大の禍を回避できたと安堵していた。 舟立海岸に残っていたのは人魚姿のアンフィリットとアクアティックファイター姿の比美歌と法代と炎寿。それからムース伯爵夫妻とラルーシェ。そして海岸から渡ってきたブリーゼとジザイ、徹治と海藻型エネルギーの円盤に乗ってきた毬藻だけだった。 「これって……」 アンフィリットは祈りと平和の神に転生した〈禍を起こす者〉と別れた後、アクアティックファイターとしての変身が解けて人魚の姿になったのかと不思議に思っていると、アンフィリットの持っていたライトチャームが灰色に褪せてひび割れていたのだ。 「つまり安里ちゃんはアクアティックファイターに変身できない、ってこと?」 比美歌が朽ちたライトチャームを見て疑問に思っていると、ムース伯爵はこう述べてくる。 「そういうことになるな。アンフィリットの相手を想う気持ちと人間や妖精の願いが合わせって、禍を退けられた代償がこれだ」 「何か、もの哀しいですよね。そういうのって……」 法代が呟き、炎寿も続けて言う。 「アンフィリットはアクアティックファイターの能力を失ってしまったけれど、世界を救えられたからなぁ……」 その時だった。海岸から一人の人物が走ってきて、一同は目を見張る。その人物は神奈瑞仁であった。瑞仁は海神町の自宅にいたが、安里からのメールと救援を求める声を見聞して舟立海岸まで来たのだった。 「か、神奈くん!? ああ、どうしよう。わたし、人魚の姿だった!」 アンフィリットはあわてふためき、他の面々も狼狽するが、瑞仁は気にすることなく自ら浅瀬の中に入って服が濡れるのも構わず、人魚の姿の安里ことアンフィリットを見つけて近寄ってきたのだった。 「君が、以前学校に現れた怪物を退治してくれた女の子だったんだね」 瑞仁はアンフィリットを見つめて訊いてくる。今の安里は本来の色の深いピンク色の髪で眼は薄紫色、波を思わせるパールパープルのドレス、何より腰から下は薄紫色の鱗とヒレの魚であった。にも関わらず、瑞仁はアンフィリットを見つめたのだった。 「神奈くん。わたし、あなたのことを騙していたのよ? なのになんで来たの?」 アンフィリットは瑞仁に騙して黙っていた罪の意識で動揺するが、瑞仁は返事をした。 「おれ、前から気づいていたよ。真魚瀬が怪物退治の女の子だってこと……。家にいた時、真魚瀬がいなくなるんじゃないか、って来たんだよ……。良かった、生きていてくれて……」 瑞仁はアンフィリットを抱きしめた。炎寿も比美歌も法代も、ブリーゼもジザイも徹治も毬藻も、ムース伯爵もエトワール夫人も、ラルーシェも二人の様子を見守っていた。 やがてムース伯爵夫妻とラルーシェも舟立海岸と通じる"門"に向かってミスティシアのマリーノ王国へ帰っていった。 瑞仁と徹治は服が濡れてしまったが、炎寿の出す火で服を乾かしてもらった。アンフィリットはライトチャームが朽ちたためアクアティックファイターに変身することは出来なくなってしまったが、環境に合わせて姿を変える変幻自在法は使えることは出来た。 瑞仁と安里は今日のデート先である舟立海岸のクルーズを満喫した。クルーザーは地元の航海士が操縦し、他にも十数人の夫婦やカップルを含めた乗客が乗っていた。 沖合に来ると、瑞仁と安里はデッキに出て、これからのことを話し合った。 「えっ、故郷に帰る……?」 瑞仁は安里の話を聞いて、思わずペットボトルのサイダーを落としそうになった。 「うん。妖精は二〇〇年も生きられて、ミスティシアの方が時間の流れが早いから……。でもこれだけは覚えていて。わたしはまた人間の世界に戻ってくる! それまでのお別れ……」 安里はここで言葉が詰まって泣き出した。瑞仁は安里を抱きしめた。 「安里は……よくやったよ。何組もの悪い奴らと戦って、おれたち人間を守ってくれた。妖精の世界は安里にとってはいいことばかりじゃなかったけれど……、おれとまた会う時はおれに相応しい女性になって戻ってくるんだろう? おれもまた安里と会えるのなら、耐えられる……」 空は明るく晴れ渡り潮風が髪や服をなびかせ、波は瑠璃色に染まって白い波で縁取られて静かに音を立てていた。 一学期が終わり季節は夏のまっ盛りになった。安里と炎寿は転校すると学校に告げて、それぞれ一年以上と一年近く過ごしてきた保波高校の面々と離れることになった。 七月の終わりの舟立海岸の早朝――。空は日が昇る前で波も低く、灰がかった青の空間で安里と炎寿、ブリーゼとジザイは見送りに来てくれた比美歌も法代、徹治と毬藻、そして瑞仁に別れを告げた。 「さようなら、安里ちゃん、炎寿ちゃん」 「向こうでもお達者で……」 比美歌も法代が別れの辛さを堪えながら安里一行に別れのあいさつをした。 「ブリーゼ殿、ジザイ殿、世話をかけましたね」 「いえいえ、この世界のことはリモーマさんにお願いします」 「ありがとうございました」 徹治が嗚咽を出しながらあいさつを告げる。 「うっ、炎寿さん……。ぼく、君の、おかげで、強く、なれたのに……。別れるなんて、さびじい……」 「わたしのために泣いてくれてありがとうな。わたしもいつか、ここに戻ってくるから。その涙は再会の時にとっておいてくれないか?」 炎寿が徹治を慰める。 「安里。また会えるのを待っている……」 「わたしもよ。瑞仁……」 お互い固有名詞で呼び合える仲に達していた二人だったが、安里が自分を見つめ直すためにミスティシアに帰るまでの期間は瑞仁にとって長くなるかと不安になった。 安里一行は水に入り、安里は人魚、炎寿は下半身が蛇の炎蛇族の姿になり、海の中に潜っていった。 「さよーならー!!」 「また会えるのを待っているよ〜!!」 比美歌と法代がミスティシアに帰る仲間に向かって叫び、徹治と瑞仁も叫ぶ。 「炎寿さぁ〜ん、ありがと〜!!」 「安里〜!! 必ずおれの元に戻って来いよ〜!!」 二人と二匹の姿が見えなくなると、朝日が昇って空と海の水面を淡いバラ色に輝かせた。 それから七年が経過した――。その期間、世間を騒がせる悪の存在は出てくることなく、地球の住人は各々の生涯を歩んでいった。 神奈瑞仁は保波高校を卒業後、千葉県内の大学に進学して千葉県のローカルテレビ局・房総テレビに就職し、ADとして活躍していた。仕事が深夜まで続いて朝帰りや泊まり込みになったり、ベテラン俳優の指示に従ったりと多忙ながらも平凡で充実した日々を送っていた。 宇多川比美歌は歌手としてだけでなく、テレビドラマやミュージカルにも出演し、何より尊敬している歌手・MOEのプロデュースを受けて二十一歳の時にシングル曲『SEIREN Fantastic』がミリオンセラーになり、また父親に邸宅を買ってあげ、父親はタクシー運転手をしながら一人親家庭の子や放置子を預かる事業を営んで、好評を得た。 根谷法代は中学校卒業後、広域通信制で国内外留学もある千葉都心の高校に通い、現在は千葉県内の植物科学科のある大学に入学し、花や草木の品種改良の研究をしている。大学入学と同じ時期に父方祖母の毬藻が内臓疾患で亡くなってしまうが、祖母は臨終の際に「これで一松さんと同じと所にいられる」と呟いて息を引き取ったのだった。 比美歌の親友の田所郁子は服飾科の専門学校に入り、バッグやスリッパなどの小物を作るデザイン事務所に就職し、ミスティシアの妖精を思わせるレースや刺繍が評判を得て売れっ子になった。 伊藤邦子や加賀睦実もOLとして過ごしており、深沢修は首都圏の名門大学に入って院生にもなって将来は名誉教授を目指している。 炎寿と惹かれ合って、しかも半分ミスティシアの水妖精の血を引いていた岸尾徹治は通信制の香桜高校を卒業後は教育学部のある大学に入って教員免許を取得して、小学校教諭となって未亡人の母親にようやく親孝行することが出来たと実感していた。 安里と炎寿と同じマンションの住人で舟立工業高校に通っていた脇坂迅は安里との片想いに破れるも、安里と炎寿が去った後の保波高校の文化祭で知り合った田所郁子と交際したのだった。 瑞仁の幼なじみである鈴村史絵は瑞仁に失恋した後、瑞仁の兄の秀樹に慰められたのがきっかけで交際し、父親と同じように貿易会社に勤めになった秀樹の奥さんとなって、七年後現在は舟立ベイシティに住んでいる。 房総テレビに就職して二年が過ぎた日の夏、次のロケーション先での会議の日、先輩のAD女性から出演者のプロフィールを教えてもらうと、瑞仁は自分の望みに一筋の光が走ったような感覚に襲われた。 プロデューサーや撮影班などが去った会議室で、楕円状に囲ったテーブルの上に出演者の書類の一枚には、次のように書かれていた。 「ギリシアの都心で生まれて、飛び級で小学校・中学校・高校を卒業して、十四歳で大学に入学したのち、日本に渡り日本の高校で一年四ヶ月を過ごした後、またギリシアに戻る。 十六歳でギリシアの高校に編入したのち、また飛び級で高卒及び大学に入学、十九歳で大学卒業資格と博士号をえる。そして現在は世界各地の民俗学の研究者――」 どこかで聞いたことがある経歴を目に通して、瑞仁は胸が高鳴った。次のロケーション先で会えることを。 その数日後、房総テレビのロケーション班は九十九久里浜のポートタウンに来ていた。 九十九里浜ポートタウンは三年前に完成し、観光船や漁船が波止場に並び、七階建てホテルや民宿などの宿泊施設も多く、夏の今はプール開きのある大型臨海公園は来客でにぎわっており、町の様子は人工的な風景で悪印象をつけないように瓦屋根や障子窓を使った店舗のストリートが古風ながらの見栄えの良さをアピールしていた。 房総テレビのロケーション班は広々とした旅館に泊まり、大広間で出演者の新人若手俳優の男女三人と九十九里浜出身のお笑いタレントの青年、そして若い民俗学者の女性と顔合わせした時だった。 ギリシアで生まれて一年数ヶ月だけ日本の高校に通い、飛び級で大学卒業して民俗学者になった女性を目にして瑞仁は座敷から思わず立ち上がった。 茶色のセミロングウェーブの髪に真珠の肌、背は以前より伸びて薄紫色のキャミソールワンピースと桜色のフリルボレロカーディガンの服装であったが、十五、六歳の時から変わらない容姿であった。 「安里……!」 瑞仁は若い民俗学者の女性の名を呼んだ。 「瑞仁、あなたよね? わたし、帰ってきたわ!」 他の人たちが見ている中で二人は再会の抱擁をした。 安里は日本で高校受験二年目の夏休み時に炎寿とブリーゼとジザイと共にミスティシアのマリーノ王国へ帰っていった。 マリーノ王国で両親と妹と過ごして、マリーノ王国の大学を入学し直して民俗学者になる進路を選んで、民俗学者としての資格を得た後はミスティシア内の海の国々だけでなく、陸や空の国々を巡って異国の文化文明をマリーノ王国の住人に伝えたのだった。 人間界での七年はミスティシアでは二十八年の月日が経っており、安里も人間換算年齢の二十二歳になっていたのだ。 安里は今度こそ人間の世界で民俗学者としての生涯を歩み、瑞仁との再会から九ヶ月後に結婚したのだった。 一度人間界に行ってミスティシアに戻ってからまた人間界に来たのは安里の他、炎寿とクーレーもいた。 炎寿はミスティシアで陸の国の体育大学へ進んでスポーツ選手となって活躍し、人間界では小中学生に体操を教えるインストラクターとなり、岸尾徹治と結婚して彼の母親とも暮らすようになった。 クーレーは父親や親戚の元から離れると人間の姿で法代と再会し、法代は好青年になったクーレーが人間界に住むことになって喜び、クーレーは父親と同じ漁師になった。 それだけでなく、人間界にやってくるミスティシアの妖精も次々に現れてきて、人間と友達になったり生活の知恵を分け合っていくようになった。 二つの世界の主要種族のやり取りは絶たれることなく、何世紀に渡って続いていったのだった。 今は祈りと平和の神になった古代妖精の時と同じように――。 〈全話・完〉 |
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