2弾・1話 安里の初めての林間学校


「ううう……」

 真魚瀬安里(まなせ・あんり)は右手に包丁、左手を拳にして、まな板の上の玉ねぎを刻もうとしていた。

「ええと……、玉ねぎのみじん切りって確か……」

 縦半分に切ったのは良いが次はどうするかで行きとどまっていた。

「安里ちゃん、野菜全部切ったー?」

 同じ班の宇多川比美歌(うたがわ・ひみか)が安里に尋ねてきた。比美歌は褐色の髪をレイヤーショートにして着ている服は県立保波高校の体操着とジャージ。体操着の縁どりとジャージはオリーブグリーンである。安里も保波高校の体操着とジャージを着ており、茶色のセミロングウェーブエアを二つの三つ編みに分けていた。周りの男子と女子もオリーブグリーンの体操着を着ており、木板の屋根のあるコンクリート造りの炊事場で野菜を切ったり米を研いだり火を起こして飯盒炊さんをしていた。空は夕日によって上が紫で下がほの赤く染まっていて、夏の暑さの他にも火の熱さも漂っていた。

 炊事場の向こうには大きな沼、近くには白い建物と体育館のある場所。ここは印旛少年自然の家。今日は保波高校一年の林間学校の一日目であった。

「えーと確か線を入れるだったかな……」

 安里はみじん切りのやり方を思い出して玉ねぎに線を入れようとした時、誰かが覗き込んできて注意してきた。

「違う、違う。玉ねぎの向きが違うじゃんか」

 安里が振り向くと同じクラスで同じ班になった神奈瑞仁(かんなみずひと)が立っていた。

「かっ、神奈くん」

「玉ねぎはとがっている方を上にして縦に線を入れて切るんだ。おれがやるから真魚瀬は後片付けやれよ」

「あ、ごめん……」

 安里は神奈瑞仁と入れ替わり、瑞仁は器用に玉ねぎをみじん切りにした。

「う、上手いね……」

 瑞仁の包丁の使い方を見て安里は感心する。

「まぁな。おれんち共働きだから。料理だってやるし、掃除も洗濯だってやるよ」

「そーなんだ……」

 瑞仁は玉ねぎの他に人参とジャガイモを乱切りにし、金網の張った火起こし場の鍋の中に野菜を入れる。鍋の中は温められた水とこれから色つける牛肉が入っていた。その後は灰汁を取り、二〜三十分経ったところでカレールーを入れて、更に煮込んで炊けたご飯の上にかければカレーライスの出来上がりである。スパイシーな匂いと湯気が漂う。

「いただきまーす」

 今日の晩御飯であるカレーが出来上がると、炊事場の隣のベンチでグループごとに分かれて食べた。ベンチは木板を使いテーブルも同じで安里は比美歌、田所郁子(だどころいくこ)、神奈瑞仁、深沢修(ふかわざわおさむ)と一緒に食べた。

「おいしいよ」

「郁ちゃん、ゆっくり食べて」

 比美歌がおいしさのあまりせかして食べる郁子に言った。

「ぼくも家でカレーを作るけど、チキンカレーの方が好きだな」

 クラス委員で優等生の深沢修がカレーをほおばりながら述べる。安里はスプーンを口に入れてカレーを一口食べる。

「わたしには家で食べているのと変わらないような気がする」

 安里の発言を聞いて瑞仁と修が不思議がる。

「え? キャンプで作ったカレーって、家で食べるよりおいしいんだぞ? それがわからないなんて……」

「神奈くん、真魚瀬さんは今日まで林間学校に参加したことがないから、夕焼け空の下で作って食べるカレーの良さってのはどうかしているんだよ」

 修が瑞仁に安里の林間学校未経験を教えてあげた。

「る、安里ちゃんは長いことギリシアで暮らしていて、しかもあっちじゃ大学に飛び級していたから、学校行事に出ていなかったんだよ」

 比美歌が瑞仁と修に安里の経験を教えた。

「真魚瀬って勉強の出来が良いから料理も家事も出来るんだろうな、って思っていたらそこは苦手だったってのが意外だったな」

「まぁ、それは天は二物を与えず、ってやつだよ」

 瑞仁が安里の意外な点を呟き、修が付け加える。実質、安里は語学や数学や理科や社会、音楽、美術、保健体育、道徳の出来は良かったが、料理や裁縫といった家庭科だけは苦手だった。安里に料理をやらせれば焦がすか半生やけ、裁縫は縫い目がいびつだったり何度も針で指を刺していた。

 また保波高校に入る前も安里は飛び級で八歳の時には一二歳のクラスにいたり、一五歳になる前は本当に大学一年生のクラスにいたのだ。ただしギリシアではなく、別の国のだが。

 この安里は妖精の世界ミスティシアの東の海の底にあるマリーノ王国出身の人魚、アンフィリットであった。アンフィリットは幼い頃から勉強も歌舞も運動も秀でており、人間で言う八歳の時は一二歳の子と同じクラスにいたのだ。だがアンフィリットの出来の良さに同世代の妖精たちはアンフィリットをひがみアンフィリットには友達をと呼べる者がいなかったのだ。

 それだけでなくアンフィリットが生まれた時にマダム=テレーズという占い師の人魚が「この子が成年を迎える前に大いなる悪が現れ、アンフィリットは三人の仲間と共に悪を打ち破るアクアティックファイターとなるだろう」という予言を授けられていた。

 アンフィリットが一五歳の時にマリーノ王国に曲者ぞろいの海賊、ドレッダー海賊団が現れ、女王も国民もアンフィリットの両親も海賊船長の術によって万年水晶の中に閉じ込められて、アンフィリットは父母に仕えていた不思議生物のジザイとブリーゼと共にマリーノ王国を脱出し、国外にある人間界とつながる門の洞窟に入り、人間界日本国千葉県舟立(ふなだて)海岸にたどり着いた。

 アンフィリットは変化自在法という術を使って人間の真魚瀬安里となり、ブリーゼとジザイは安里の両親となり、人間界の住人として暮らすことになった。ギリシア帰りは人間界で暮らすための口実で、安里は人間でいうとこの一五歳の年齢のため高校に通うことになった。林間学校の二ヶ月半前に保波高校に入学した。

 人間界では同い年の子が一つの場所に集まって同じ勉強をして同じ時間を過ごすことが多いと知った安里は妖精界と同じ様な目に遭わないかと抱いていたのか、なかなか友達が出来ずにいた。

 ある時、安里の国を襲ったドレッダー海賊団の幹部と遭遇した安里はマダム=テレーズの予言通り、水の妖精の勇士の力が覚醒し、アクアティックファイターとなり、幹部を追い払い怪物シデーモを倒すことに成功し、更にシデーモの中から六つ集まればマリーノ王国を取り戻す秘宝、ファンタトレジャーを手に入れた。

 最初のうちは仲間を持ってもいずれは自分の有能さに妬みを持つから仲間と共にするよりは一人でドレッダー海賊団を倒そうと考えていたが、砂を操るシデーモに襲われていた時、同級生の宇多川比美歌が世代を隔てて妖精の力に目覚めてアクアティックファイターになった。比美歌のことはいずれはひがんでくるだろうと疑っていた安里だが、海賊団の一員フェルネに襲われていた時、比美歌に助けられてそれ以来、比美歌とその友人郁子と遊ぶようになった。

 三人目は安里の近所に住む花屋の娘、根谷法代(ねやのりよ)だった。法代は生まれた時から傷や病の治りが早いため妖精の力を持っているのではないかと思われていた所、案の定だった。

 四人目は意外な人物で、安里と仲間たちはミスティシアのマリーノ王国に戻り、海賊団と決着をつけて、ドレッドハデス船長を倒し、万年水晶に閉じ込められてマリーノ王国の住民を救ったのだった。

 安里はマリーノ王国を取り戻した後、人間界で暮らすことを決めた。マリーノ王国では体験しなかった学校行事を、いや多くの出来事を知り行うために。

 カレーを食べ終えた後は安里は瑞仁と皿洗いの役を交換して、石造りの流し場へ行ってステンレスの器とマグカップとスプーンを洗った。安里は家事は全部ブリーゼがやってくれているため、食器の洗い方は雑だった。スポンジを濡らして洗剤をつけ蛇口の水で洗えばいいのだが安里は水で食器の汚れを落としただけだった。

「ちょっ……、何やってんだよ、真魚瀬!?」

 安里が帰ってこないのが気になって流し場に来た瑞仁が安里の食器の洗い方を見て声を上げた。

「違うだろ? 皿はこうやって洗うんだよ」

 瑞仁はスポンジを濡らして洗剤をつけベタつきのある食器を洗って水洗いした。

「真魚瀬ぇ、料理どころか皿も洗えないなんて、どうかしていないか?」

 瑞仁はタオルで食器の水気を拭って安里に注意する。

「あ、その、わたし……勉強や習い事に夢中になっていたから、家事は教えて……」

「箱入りお嬢様か。今時お嬢様だって家事を覚えるぜ?」

 そう言って瑞仁は少年自然の家の方へ足を向けて、安里もついていった。

 その後は宿舎でレクリエーションとなるハンカチ落としやなぞなぞ、椅子取りゲームや芸を行い、一日目は終わっていった。

 宿泊室は壁付けに設置された二段ベッドで同じ部屋の安里と比美歌と郁子は宿泊室の一角で一晩を過ごした。比美歌と郁子はベッドの下、安里は比美歌の上で寝ることになった。

(騒がしいけど、活気があったんだな。林間学校って。野外の学校行事って遠足と社会科見学だけだったわたしにとっては疲れた、けど何か新鮮だったな……)

 安里が上の学年に飛び級が決まった時は同年の子は修学旅行や宿泊学習の時期だったマリーノ王国時代。体験していなかったからこそ、より味わえたのかもしれない。


 翌日は近くの山で登山をし、保波高校の生徒たちはクラスと班ごとに山道を歩いていった。登山の道はブナや柏、ケヤキやカシなどの木々が生い茂り、地面にはシオンやアザミなどの鮮やかな花もあればアカザやシダなどの触ったらかぶれる草もあり、山鳩やカラやコゲラなどの鳥の姿や鳴き声を見聞きし、葉の隙間から木漏れ日が差し込み、山道を斑上に照らしていた。

「安里ちゃん、大丈夫?」

 比美歌が安里に尋ねてくる。安里は班の中で遅れがあったからだ。

「へ、平気よ。ただ……、こんなに歩くのは初めてだから」

 息を切らしながら安里は比美歌たちに言った。安里は人魚だ。今の姿は人間界で暮らすための仮の姿で、本当は水の中では有利な尾ひれを持っている。

 ようやく目的地の標高三五〇メートルに着いた時はお昼になっていた。そこの景色は見晴らしがよく、少年自然の家や印旛沼の広さを見下ろすことが出来た。高台では目的地についた生徒たちは宿泊施設の人が作ってくれたお弁当を食べたり景色を見つけていたりおしゃべりをしていた。

(今まで自分は海の中にいるか地上に立っていたかで、こんなに高い所にいるなんて……)

 安里は空が青く強めの風が吹いている場所に立っているのを感じていた。


 昼食後は下山をして少年自然の家に戻り、休憩して施設内で夕食を採った後は、屋外の広場でキャンプファイヤーを楽しんだ。木のやぐらに火をつけて、瑠璃色の空の下で赤々となっている中、生徒たちはフォークダンスを踊り、歌を唄ったりと過ごした。

「フェルネ……」

 キャンプファイヤーの炎を見て、安里はフェルネのことを思い出した。

 かつては安里の故郷を襲ったドレッダー海賊団の一員だった炎蛇(えんじゃ)族の少女、フェルネ。敵対者でありながら卑怯を嫌い、三度も安里に立ち向かってきた。実は彼女こそが四人目のアクアティックファイターで、安里たちの仲間となってドレッドハデスを倒し、その後は罪滅ぼしの名目で安里の本当の両親であるムース伯爵とエトワール夫人の下(もと)で再教育を受けることになった。

「おい、真魚瀬。途中からボーッとして」

 後ろから声をかけられて安里は振り向いた。

「あ……、神奈くん」

 神奈瑞仁だった。

「ちょっと……、疲れちゃって」

 安里は瑞仁に言った。安里は同年の女の子どころか男の子ともなれしんだことがなかったから、あまり考えずに答えた。

 最後の三日目は朝食後は陶芸体験で生徒たちは工作室へ集まって年度で花瓶やマグカップなどの陶芸を作り、後は陶芸家の手によって焼かれて着色されて、後日に学校に送ってくれることになった。

 昼食に入る前に近くの町で家族や友人に渡すお土産を買い、安里は家で待っているブリーゼとジザイに印旛まんじゅうを、根谷家の人にもせんべいを買い、法代にはリクエストのパワーストーンのキーホルダーを買った。

 昼食後に少年自然の家を出発し、生徒たちを乗せた観光バスは数時間後に保波高校の校庭に到着し、解散した。

 安里と比美歌と郁子は交通バスに乗って家の近くで降りた。バスが磯貝五丁目に近づくと、降りる準備をする。

「それじゃあね、比美歌ちゃん、郁子ちゃん」

「うん、また来週ね」

 安里は郁子と比美歌と別れて磯貝五丁目のバス停を降りた。安里は着替えなどが入った筒型のスポーツバッグを抱えて道路と住宅の並ぶ町中を歩いた。日は西に傾き空は赤みをさし、道路は車体も色も異なる自動車が多く走り、家から親子の声が聞こえてくる。

 バス停から五分歩いたところで、真向かいがコンビニ、右が駐車場で左が道路になっている三階建ての灰色のプレハブ造りの建物――『メゾン磯貝』の二〇一号室が安里の家であった。一二ある部屋の中段左端が、真魚瀬家で、真ん中の階段を昇って玄関のブザーを押す。すると扉が開いて細身にアップヘア、シンプルなダンガリーワンピース姿の中年女性が出る。

「まぁ、お帰りなさい」

「ただいま」

 安里は家の中に入り、学校用の運動靴を脱いで玄関から見て右のドアを開けて自室の中に入る。

「アンフィリット様、お帰りなさいませ」

「はぁ〜、今までやらなかったことをやったから疲れたよ。お風呂入りたいな〜」

「そう思って沸かしておきましたよ」

「ありがとう、ブリーゼ」

 この女性は安里ことアンフィリットの父母に仕えてきたミスティシアの不思議生物ブリーゼである。

 ブリーゼは本来はカモメのような姿なのだが、安里の人間界での母を勤めているため変化自在法で人間に姿に変えているのだ。

 安里は脱衣所で体操着とジャージを脱いで湯気の立つ浴槽の中に入った。湯船に入ると変化自在法を解いて人魚の姿になる。

「ああ〜っ、生き返る〜っ」

 背中まである深いピンク色のウェーブヘアに紫の瞳、腰から下は紫の鱗と尾ひれを持つ人魚姿の安里は三日分の疲れを癒した。宿泊施設でも浴場があって大人数で入れたけど、大勢の人間の前では人魚の姿には戻れなかった。家の風呂場は一人しか入れないけど、誰も見ていないから人魚の姿に戻れた。

 充分浴槽につかった安里はタオルで水気を拭って普段用のシャツとスカートを着て人間の姿になって台所に入った。台所と兼用している食堂はコンロと流し台と冷蔵庫と食器棚と電子レンジ、そして小さな食卓と椅子が三脚。台所ではブリーゼがエプロンをつけて晩御飯を作っていた。トントンと包丁で野菜を刻んでいた。

「アンフィリット様、林間学校はどうでしたか?」

 ブリーゼがお風呂上がりの安里に尋ねてきたので、安里は冷蔵庫からりんごジュースの紙パックを出して食器棚のグラスに注ぎながら答える。

「今まで宿泊学習なんてやらなかったから……、新鮮だったよ。山登りは疲れたけど」

 安里は自分なりの林間学校の感想を述べる。

「そうですか。アンフィリット様は飛び級で宿泊学習に参加してこなかったからかえって不安になるかと思ってましたよ」

「でも最初の日の夜に自分たちでカレーライスを作ることになった時はちょっと……」

 勉強と舞踊と運動と芸術は秀でている反面、家庭科はとても低い安里は同じ班の男子に代わってもらったことを話した。

「同じ班の男子、って?」

「神奈瑞仁くん。同じクラスのバスケットボール部員で男の子だけでなく女の子の友達も結構多いの。おうちは共働きだから家事もやっているって」

「そうですか。あとアンフィリット様、ジザイのことですが……」

 ブリーゼは手を休めずに安里にもう一人のお供の不思議生物ジザイのことを話しかけてくる。ジザイは緑色の海亀に似た不思議生物で、人間界では安里の父となり清掃会社に勤めている。

「ジザイがどうかしたの?」

「はい。アンフィリット様が林間学校に行っている間にマリーノ王国にいるムース伯爵さまからお呼びがありまして、今日の会社の帰りに一時的にマリーノ王国に戻るようです」

 その話を聞いて安里は首を傾げる。

「お父様が? 一体何が?」

「それはわかりませぬ」


 妖精界ミスティシアの東の海の中にある人魚をはじめとする海妖精の国、マリーノ王国。貝殻や土砂やサンゴを寄せ集めた丸みを帯びた家屋がいくつも並び、その中心に巨大な巻貝の形をした王城が建ち、そこが現女王セレーヌの住まいである。マリーノ王城の周囲の住居は海藻の囲いや出入り口に建てられた庶民の家よりも大きい貴族の家や豪商家である。

 その一つの貴族の家で砂と小石の他、白波貝と紫サンゴで装飾が施されているのがアンフィリットの実家でムース伯爵邸である。伯爵邸の一室でムース伯爵の書斎には金髪に紫の眼に銀色の尾ひれと鱗を持ち、灰色の地に金糸の刺繍入りの長衣をまとった男の人魚、緑色の海亀姿の不思議生物がいた。書斎は石英の机と椅子、壁付けの本棚には海藻の繊維で出来た冊子や巻物などの書物が収められ、床と壁と天井は白石灰で四角く固められており、天井には照明としてのヒカリゴケの入ったガラスの球体。男の人魚は椅子に座って机の上にある一枚の紙を広げて不思議生物に見せていた。

「見てくれジザイ。これはアンフィリットが物心つく前にわたしたちの元に送られてきたマダム=テレーズからの予言の文書だ。文字の他にも色々な記号や暗号が書かれている」

 男の人魚――アンフィリットの実父であるムース伯爵が海亀姿の不思議生物ジザイに予言の文書を見せる。文字はマリーノ王国とその周辺の国で使われるマリニッシュ文字で、その形は二枚貝や巻貝、ヒトデなどの海の生物に似ていた。マリニッシュ文字の他には、星や丸などの色々な記号が書かれていた。

「アンフィリット様は知らないのですか? この文書のことは」

「わたしと妻のエトワールしか知らない。第一娘に見せたって……、この文書の内容を受け入れてくれるかどうか……」

 ムース伯爵は口を一文字にして答える。

「ええと、水の妖精の勇士、アクアティックファイターとなった光の名を持つ人魚、生命を万年水晶に変えし海の賊を打ち払った後、新しき邪悪が現れ再び勇士となりて戦うだろう。その邪悪は……」

 ここで文書の文字は赤紫のシミで汚れていたため読めなくなっていた。

「ああ、ここの部分だが……、この文書が届いてから一〇日後にペリコの果実酒を零してしまってな……。にじんで読めなくなってしまった」

 ハハハ、とムース伯爵は笑って過ごした。

「はー……、伯爵様。肝心の"悪"がわからなければ、わたくしどもやアンフィリット様たちはどうしたらいいかわからないではありませんか」

 ジザイがため息を吐きながらムース伯爵に言った。

「だが、その時はその時だ。ところで、アンフィリットは人間界で上手くやっているか?」

「はい。アンフィリット様は現在ご在学中の高校の林間学校という催しに参加しに行ってまいりました。そろそろお帰りの頃かと……」

 それを聞いてムース伯爵は「ほぅ」と呟いた。

「飛び級のため今まで宿泊学習に参加しなかったアンフィリットが……。だけどアンフィリットの通う学校にはアクアティックファイターの一人がいたから大丈夫だろう」

 ムース伯爵は娘の様子を聞いて安心した。

「ジザイ、もうそろそろ人間界に行った方がいいのでは?」

 ムース伯爵に促されてジザイはかしこまった。

「はい。ではまた改めて……」


 ジザイが人間界日本国千葉県保波市に戻ってきたのは日曜日。安里が林間学校を終えてから二日の後だった。

 ジザイはミスティシアと通じる場所の船立海岸から磯貝町に通じる野辺(のべ)川を泳いでいき、野辺川に着くといつもより川の水が多いことに気づいた。

(雨で増水しているな……)

 ジザイが水面から顔を出すと、アスファルトの道路は雨で黒く染まり、空は白い雲に覆われて雨がザアザア降っており、風で住宅の庭木が左右に揺れていた。

 ジザイは川から橋に這い出ると、変化自在法を使ってレインコートをまとった恰幅のよい中年男性に姿を変えて、雨中の町を歩いていった。

 ジザイはメゾン磯貝に着くと玄関のドアを叩いて、人間姿のブリーゼがドアを開けて中に入れてあげた。

「まぁ、お帰りなさい」

「ああ、今帰ったよ」

 ジザイは急いで玄関の戸を閉めて淡い緑色の光に包まれると海亀の姿になり、ブリーゼも仄白い光に包まれてカモメの姿になる。

「お帰りなさい、ジザイ。マリーノ王国に行っていたけど、何があったの?」

 右奥のドアが開いて、シャツワンピース姿の安里が現れる。

「え、ええ。お父上にアンフィリット様の近況を伝えに……」

 ジザイは安里に曖昧ながらも答えた。

「それよりも林間学校の方はどうでしたかな?」

「林間学校? 疲れたけど、思ってたより良かったよ」

「そうですか」

 その後はブリーゼの作ってくれた晩御飯を食べて、安里は明日の学校の準備をしてベッドに入って眠りに就いた。

 マリーノ王国がドレッダー海賊団に襲われて人間界の日本に亡命してから半年が経った。安里は半年の間に人間界の法律や常識や学問を覚え、学校に通い今に至る。

 マリーノ王国を取り戻してからも、ミスティシアでは手に入れられなかった友達や仲間が出来て、学業を終えてからマリーノ王国に戻ることに決めた。

 だけど、これから起こる出来事には知る由もなく……。