節季は二月に入り、気温も一〇度を超えるようになった頃、小学生女児から社会人の女性たちはあるイベントのことで持ち切りになる。コンビニエンスストアやスーパーマーケットやデパート地下店ではチョコレートやチョコレート味の菓子の商品が陳列されるようになった。 「しっかし、この時期に入るとチョコレートがやたらと多くないか?」 学校の帰りに安里と炎寿は郁子に付き添われて、五丁目のホームセンターの文房具売り場に来ていた。そこに来るまでに近くのコンビニでチョコレートの多さに炎寿は呟いた。レジで新しい下敷きとレポート用紙を買い終えた郁子が二人の前に現れる。 「安里ちゃん、炎寿ちゃん。お待たせ〜。そんじゃ行こうか」 三人はホームセンターを出て、次のバス停まで時間があったので次の停車場まで歩いていくことにしたのだった。二月に入ると日暮れの時間も変わり、空は朱色と紫に染まっていた。 「あ〜、あと一〇日でバレンタインだねぇ。あ、わたしはパパぐらいしかあげる人がいないけどね」 郁子がそう言ってきたので、安里と炎寿は図書館で学んだバレンタインの知識を思い出した。バレンタインはキリスト教の行事で、バレンタイン司祭が兵士の恋愛を求めたために死刑にされた日を、男女の仲を深める祭りとして生み出された。お菓子がチョコレートなのは、当時のチョコレートが祝い菓子であったこともあり、妻や女性が夫や恋人にチョコレートを渡す日として扱われた。二十一世紀に入ってからは同性同士で分け合う友チョコも生まれた。また好きな男子がいる女子中高生なんかは、自分で製菓用チョコレートを溶かして、マシュマロやナッツを入れて型を取って作ったりしていた。 (去年の今頃は人間界になじむために、そういうのは関係ない、って思ってたのがなつかしい……。まさか、ここに住んでから恋をするなんて) 同じクラスの神奈くんが好きになっていたことは安里自体も予想していなかったのだ。十二月には神奈くん、二週間前には別の高校の脇坂くんとのデートした安里だったが、脇坂くんとのデートで安里は気づいた。自分が好きなのは神奈くんなのだ、と。 (そうだ。バレンタインの日に神奈くんに告白しよう。そして手作りのチョコレートを作って渡そう) 神奈くんに告白するのなら、この時しかないと安里は思ったのだった。 その日の夜、安里は居間に置いてあるノートパソコンを開いてインターネットに接続して料理レシピサイトを探って、バレンタインに相応しいチョコレート菓子の作り方を検索していた。真魚瀬家のPCはジザイが年末に購入した中古品であるが、OSは新しめで購入三ヶ月までなら保証もついていた。とはいえ、使うのは主にインターネットニュースや事件掲示板、珍しい動植物や鉱物の情報収集であった。つまりマサカ=ハサラが狙いそうなものを探すために買ったのだった。動画サイトやアニメ・ゲーム・漫画の二次創作サイトといった娯楽の検索歴は少なめである。 料理レシピサイトは日本中の登録者が自作のおかずやお菓子を発表し、他の人が参考にして作るといったサイトであった。チョコレート系のお菓子でも、千種類はある。 「クッキー、ケーキ、プリン、パフェ……。こんなにあるんじゃ、どれにしたらいいかわからないよ」 安里がノートパソコンとにらめっこしていると、食器洗いを終えたカモメ姿のブリーゼが居間に入ってくる。 「アンフィリット様、どれか作ってみたいお菓子は見つかりましたか?」 「う〜ん、たくさんありすぎてどれにしようか……」 ブリーゼはローテーブルの上に乗っかって、画面を覗いてみる。 「そしたら検索の所に『チョコレート 簡単』と入力すれば、今の数より少なめに煮なりますよ」 ブリーゼに言われて安里はそう検索した。すると数は千種類から一二〇になった。それでも多すぎる。 「でしたらカップケーキにしてみたらどうです? あれは初心者でも作れますし」 安里はチョコレートカップケーキを探ってみた。すると四〇くらいの画像が出てきたのだ。どの画像もチョコレートの生地に色付きのクリームや色砂糖などでトッピングされてたり、デコペンで模様付けされたものもあった。作り方も小麦粉とバターと卵と砂糖から作るものや、ホットケーキミックスでできるものと個々であった。 「バレンタインだもの。材料を一から集めて作るわ!!」 安里はそう決めた。 ――しかし安里は勉学や歌舞に猛けていても、家庭科は極端にひどかった。レシピサイトから紙に書き写すも材料を揃えて分量も計って作るも、カップケーキは炭のように焦がしたり半分生でベタついたりと失敗が多かった。 「どんだけ料理できないんだよ。三日連続、合計三十六個、失敗しているじゃん……」 「もうチョコレートカップケーキは勘弁したいですぞ」 炎寿とジザイが失敗しまくる安里のカップケーキの数に呆れ、また失敗した分は二人が食べて始末したり、ブリーゼが失敗作を別のお菓子に作りかえて近所の人におすそ分けしたりという具合であった。台所の流しには粉付きのふるい代わりの金網かごやチョコレート生地のボウルと泡だて器、三角コーナーのごみ入れには何個か使った卵の殻が詰まっていた。 「本当にアンフィリット様はこんな所で残念です……」 ブリーゼが安里の料理の下手ぶりには慣れつつも、安里も着ているエプロンが粉とケーキの生地まみれになっていた。 「なぁ、作るのはもうやめて、店のチョコレートにしたらどうだ?」 炎寿が安里にそう尋ねると、安里は頑なに返事をする。 「わたし決めたんだもん。バレンタインには手作りのチョコレートにするんだって」 「と、いうことはまだ失敗作の後始末、ですか……」 ジザイが安里のカップケーキの失敗作を食べるのはまだ続くと肩を落とした。 「という訳でな、ここんとこずっと安里の失敗作のカップケーキの始末をしてるんだわ」 「それは気の毒に」 バレンタインも近づいている学校休みの日、お使いに行った炎寿は自転車で花の配達に行っていた法代と偶然出会い、二人は晴れ空の下の町中を歩いていた。二月四日を過ぎると立春の節季に入り、晴れの日が多くなって気温も上がってくるのだ。 「ところで安里さんが手作りのチョコレートを渡そうとしている男子って誰なんですか?」 法代が訊いてきたので、炎寿はそれを耳にして口に出す。 「まぁ、安里は言っていないけど、安里と同じクラスの男子だろう。ほら、あの……」 炎寿は法代に教える。 「はぁ、同じクラスの男子か……。でも同じ学校の男子が好きになるってのは、珍しくもないし……」 法代が炎寿から聞いた安里の好きな男子の名を聞いて呟いた。 「ところで法代。クーレーのことはどうなんだ?」 炎寿に訊かれて法代は気づかされる。学校の時は胸のポケットに入れているクーレーの指輪は今は法代の右手の中指にはめ込まれており、クーレーの指輪の青い宝石の部分は輝いていた。指輪の宝石は妖精の命の状態を示す効能があり、ミスティシアでは自分の所有するアクセサリーや護身用武器の金属部分に自分の生命力を複写して友人や親兄弟に渡すことが多い。 「クーレーは動けないだけで生きている、か……。それにしてもクーレーの父親はどこで何をしているのやら」 炎寿が人間界に行ったっきり帰ってこないクーレーの父親の安否を気にした。クーレーは自分の父親の生命力を複写した道具を持っていなかった。だからクーレーの父親はすでに亡き者なのか、生きているけど日本にはいないのかとわからずじまいであった。 バレンタイン三日前の正午――。安里はオーブンから熱を出すなべつかみの手で取り出すと、チョコレートカップケーキが焼けているのを目にして、表情を明るくさせた。ケーキのスポンジは焦げてもなく半生でもなく、ほかほかと熱気を立てていた。甘さと苦さの漂うに匂いもある。 「や、やりましたね、アンフィリット様!」 「とうとうアンフィリット様がお菓子作りに成功しましたぞ!」 ブリーゼとジザイも大喜びする。一日三回×四個の失敗×六日間の期間でようやくバレンタインのチョコレートが出来たのだった。 「あとは色付きチョコペンで飾り付けて、箱に収めてリボンと包装紙でラッピングすれば……」 生まれて初めて料理を達成させた安里は呟いた。 「だがその前に片付けだからな」 炎寿が生地で汚れたボウルなどの器具と卵の殻が多い三角コーナーごみ入れを目にして言った。 「そうだ。昨日失敗したのは義理チョコにしよう。炎寿とジザイに片づけてもらってたのも悪いしね」 「それもそうですね」 ブリーゼが言った。こうして安里は使った後の器具の片づけを始めた。食器洗いは苦手でだった安里は連日のお菓子作りのやり直しにより、食器洗いが出来るようになっていた。 昼食の後は自宅学習で安里は久しぶりにじっくりやれると勉強に筆を走らせた。何故なら安里はバレンタインの菓子作りの間は、宿題と予習と復習と一時間しかやってなかったからだ。 勉強の後は炎寿と共に五丁目のバス停より奥にある合一街へ出かけ、雑貨屋でラッピング用の箱とリボンと包装紙を買いに行った。 雑貨屋は消しゴムなどの文房具から帽子やバッグなどといったファッション小物まで取り扱っている店で、ナチュラルウッドの木材を使った天井や柱や棚や床の内装で、小学生から社会人までの女性客が来ていた。ラッピング用紙やリボンだけでも二、三〇種類あり、安里は何色にしようか迷っていた。 「そうだな。バレンタインだから明るい色のリボンがいいんじゃないかな。その色の方が縁起がいい、っていうし」 「そうか。じゃあ、これにしよう」 安里はラメ入りのパールパープルの包装紙と金色のリボンを選んだ。 「ありがとうございました」 会計を済ませると安里と炎寿は店を出て、マンションに戻った。 「そんでもってラッピング終了! できたーっ」 安里は生まれて初めて作ったお菓子をデコレーションした後、冷蔵庫に閉まった。それから失敗したカップケーキは普通にタッパーに入れた。 「ミスティシアのムース伯爵にも贈ってあげればよかったのに」 ブリーゼがそれを言うと安里は答えた。 「それもあったんだけど、ここがバレンタインの時はミスティシアではそうではないからね」 「それもそうだろう。でも、ムース伯爵とエトワール夫人がアンフィリットが初めて菓子作りに成功したと聞いたら、喜ぶだろうな」 炎寿が言うと、安里はそれを聞いて困りだした。 「い、いいよ。そんなことを教えたら、またスエーテたちが……」 安里はマリーノ王国の新年会でかつての同世代の人魚たちから嫌味を言われたことを思い出した。安里に何か得意なことがまた出来ると、スエーテたちに絡まれたくないこともあって。 そしてバレンタインの当日。安里はいつもと違う気持ちで真魚瀬家を出た。手には失敗作ケーキ入りのタッパー。本命はバッグの中に入れていた。表情はいつもより頑なになっている。 (アンフィリット。いくら神奈に告白するとはいえ、顔がこわばっているぞ) 炎寿は安里の顔つきを見てそう言いたかったが、言ったら安里の機嫌を損ねると思って黙っていた。 マンションの階段を下りてエントランスホールに着くと、舟立高校の制服を着た脇坂くんと対面する。 「あっ、真魚瀬さん、朱堂さん。おはよー」 すると安里は手に持っていたタッパーを素早く脇坂くんに渡した。 「はい。これバレンタインのチョコレート」 安里はそう言うとスタスタとマンションを出て行ったのだ。 「あの、真魚瀬……さん?」 脇坂くんは安里に返事を言いそびれてしまい、バス停へ向かっていく安里の背中を見つめていた。 安里と炎寿は保波高校に着くと、いつものようにそれぞれの教室に入っていった。その前に安里は他の生徒に気づかれないように昇降口にある神奈くんの下駄箱にメモ用紙を忍ばせておいた。 (神奈くんが気づきますように) 幸い誰も見ておらず、安里はさりげなく一年四組の教室に入っていった。 昼休みに入り、安里と郁子、五組の教室からお邪魔してきた炎寿は一緒に昼食を食べた。 「ねー、良かったらチョコレート食べる? 昨日作った残りなんだけど」 昼食の弁当を食べた後、郁子が安里と炎寿に言ってきた。 「もしかして友チョコってやつか?」 「うん、そう。昨日パパに作ってあげたのが余ってさ、良かったらどうぞ」 炎寿が訊くと、郁子はオーブンシートにくるんだチョコレートを見せる。溶かしたチョコレートをハート形のミニカップに入れて固めたものだった。中にはマシュマロやナッツやコーンフレークが入っていた。 「うわっ、おいしい。郁子ちゃん、上手いよ」 安里が郁子の作ったチョコレートを食べて述べる。 「そうかなぁ」 「そういえば安里もバレンタインの……」 炎寿が言おうとした時、安里が慌てて炎寿の口を塞いだ。 「わ、わたし、義理チョコしか作ってないの! お父さんんと近所の人の分しか! 本命なんて知らない!」 作り笑顔でごまかした。その頃、神奈くんは安里たちより昼食を食べ終えて、二月とはいえ暖かな校庭で屋外バスケをしていた。同級生の何人かと三対三のチーム分けをし、神奈くんはバスケットボール部のテクで見事連勝した。 「やっぱりつえーな、神奈」 「二年になったらレギュラーになるかもな」 他の男子からそう言われると神奈くんは謙遜した。 「そんなのわかんねーよ。まだ一学年の学年末テストも終わってないのによ」 保波高校ではあと一〇日で学年末テストの期日だった。範囲はすでに発表され、更に学年末テストの翌週は卒業式で、三月二四日は修了式であった。 「もうすぐ五時間目になるから戻ろうぜ」 男子の一人がそう言ってきたので、神奈くんたちも教室に戻ることにした。外靴から上履きに履き替える時、神奈くんは一枚の紙きれを見つけた。虹色のアコヤ貝型のメモには流れるような字でこう書かれていた。 『今日の放課後、階段下の物置場に来てください。A・M』 (A・M……? でも放課後来てみりゃわかるか) 神奈くんはメモを制服のポケットに入れて教室の中に入っていった。 全ての授業と掃除とHRが終わると、神奈くんはメモの指定先の階段下の物置にやってきた。 (今日がクラブのない日で良かった) 足を踏み入れると、セミロングのウェーブヘアを三つ編みにして両手を後ろに回している女子がいたのだった。 「真魚瀬、だったのか……」 神奈くんは自分を呼び寄せた相手を目にして尋ねる。 「うん。どうしても、今日でないといけなくて……」 そう言いながら安里はおそるおそる後ろに回していた小さな箱を見せる。パールパープルの包装紙に金色のリボンでラッピングされた箱を渡す。 「これを神奈くんにあげるために作ったの」 「えっ、おれに!? 真魚瀬、料理苦手なのに、わざわざバレンタインのチョコレートを作ってきたのかよ。ありがと〜」 神奈くんは安里から箱を受け取ると、ラッピングを剥がして中を見る。中にはチョコレートカップケーキが四つ入っていて、ケーキの上には白やピンクなどのチョコペンで魚や貝などの絵が描かれていた。 「すごい、美味そう……」 神奈くんは安里のカップケーキを見て唾を飲み込む。 「そっ、それで神奈くん。わたし、神奈くんのことが……」 安里がそう言おうとした時だった。安里の制服のスカートのポケットに入れてあるシュピーシェルが鳴って、安里と神奈くんはその音に耳を立てる。 (どうしてこんな時に……) 安里は不満を募らせつつも、神奈くんに促した。 「ご、ごめんね。少し離れさせて」 安里は廊下の柱の陰に隠れるとシュピーシェルを開いて、上蓋に炎寿の姿が映し出される。 『安里、マサカ=ハサラが現れた。場所は保波七丁目にある伊能塚(いのうづか)家だ!』 安里は折角いいところとはいえ、仲間たちのピンチに駆けつけない訳にもいかなかった。安里はシュピーシェルを制服のスカートに戻すと、神奈くんに言った。 「神奈くん、ごめんね。わたし、急用が出来たの! それじゃあ、また!」 「真魚瀬……!」 安里は神奈くんに背を向け、通学バッグとコートを持つと昇降口を抜けて、マサカ=ハサラと仲間たちのいる保波七丁目にある伊能塚家へ向かっていった。 「あと一歩で神奈くんに告白出来たのに、マサカ=ハサラめ……!」 安里は憎まれ口を叩きつつも、マサカ=ハサラと戦うために保波の町中を駆け抜けていった。 |
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