真魚瀬家は新宿の小ホテルで三日ほど滞在してから保波市に帰ることになった。保波市のマンション『ベルジュール磯貝』に戻ると、ジザイは親しい近所の人と職場の人に配るお土産をマリーノ王国で買っておいてくれていた。 安里と炎寿も人間界の仲間である比美歌と法代も〈進化の装具〉を手に入れたという報告を聞いて、磯貝町の公園で経過報告の交換をし合っていた。安里はリングブレス、比美歌はイヤーカーフ、法代はブローチ、炎寿はガーターリング。この四つがそろえば〈巨悪〉に立ち向かえるというが、その兆しの様子はなかった。 「……もうすぐ新学期かぁ」 安里は呟いた。桜の木がある公園や学校では薄紅の花が咲いて、町中にピンクの雲があるようで華やかだった。桜の木の下では花見に来ている一家や大学生のグループ、近くの会社の人たちが会合を開いていた。 「比美歌は今月の半ばにデビューシングルが発売されて、法代は中学生になるんだったな」 炎寿が二人に尋ねてくると、比美歌はうなずき法代も答える。 「うん。もうテレビのCMで流れているからね。純正堂のピュアブリーズの」 比美歌のデビュー曲は四月に入ってすぐ純正堂の清涼剤ピュアブリーズのCМ曲として流れていた。 「中学生になったといっても、小学校時代の子たちと大方一緒なんですけどね」 法代が炎寿と安里に教える。日本では中学三年生までは区によって通う小学校が定まっており、市外県外への引っ越しや国私立中学受験通過を受けない限り、中学校の面々は小学校の時と同じ人が多くいるため卒業式で本当に別地への引っ越しや国私立中学に決まった人以外は泣いていない人が多かった。 「わたしと炎寿は引き続き保波高校の二年生になるしね」 「保波高校では比美歌みたいに転校する者はそんなにいなかったからな」 安里は二度目の人間界の春を迎え、炎寿にとっては初めての人間界の春であった。成績も進級点に入っていたので二年生に進級できた。 春の空は青々と晴れており、災厄とは全く無縁そうに見えていた。 保波高校の始業式――。校庭の桜の木は薄紅色の花を咲かせ、ポプラなどの木々は緑の若葉を茂らせていた。二・三年生校舎前の掲示板に貼られたクラスの振り分けを目にしてから、教室へと向かう。 保波高校は三組から五組は普通科、一組は高卒就職に有利な情報処理科、二組は留学や大学受験に有利な国際科で一組と二組は卒業まで同じ顔合わせなのだ。 「やったぁ。わたしと炎寿、同じクラスよ!」 安里が二年生のクラス分けで炎寿と同じクラスになれたことにはしゃぐ。 「ああ。しかも郁子とクラス委員の深沢や去年同じクラスの邦子や睦美も一緒だ」 炎寿が掲示板のクラス分けを目にして安里に言った。だけど安里は自分のクラスに恋仲となった神奈くんの名前がないことに残念がっていた。 (神奈くんは五組、わたしは四組。別々になっちゃったか……) 良かったのは神奈くんの幼馴染で一度神奈くんに告白したが振られた鈴村史絵は三組だったということだろうか。一度失恋した男女が同じクラスになったことでよりを取り戻すこともあるのは、安里はテレビドラマや漫画で知ったからだ。 その後は教室へ行って荷物を置いてから体育館で始業式を受けて教室に戻った後はHRを行う。二年四組の担任は福尾真由子(ふくお・まゆこ)先生といって、四〇代の家庭科教師で長い髪を後ろで丸くまとめて鋭角な眼鏡をかけた細身の先生であった。自分の担任が自分が最も苦手な教科の先生になったと知ると、安里はショックを受け、この先生と一年間やってこられるのだろうと不安になった。 HRが終わると、クラブのある生徒は校舎に残って他の生徒は徒歩や自転車やバスに乗って自宅や駅に向かって帰っていく。炎寿は体操部で学校に残り、安里は郁子と邦子と睦美と共にバスに乗って帰るも担任の先生が自分の苦手な教科の先生になるとはと不安がっていた。 「そんなに気にすることないよ。芸術の授業は三つのうち一つ選んで、安里ちゃんは去年音楽を選んでいたから今年は美術を選べばいいじゃない」 郁子が安里をなだめた。 「でも、今年美術を選んだら来年家庭科を受けたら成績不良で卒業できなくなっちゃうし……」 安里は芸術の授業の選択をどうするかでどれが明暗かと悩んでいた。 「真魚瀬さんってギリシアにいた頃は飛び級で大学に行っていたにもかかわらず、料理や裁縫が出来ないって話は本当だったんだー」 ギャル風の伊藤邦子が炎寿から聞いた安里の家庭科の才覚を口にする。 「女の子ってさ、多くは勉強よりも料理や裁縫をやりたがるもんなんだけどねぇ。真魚瀬さんは珍しいタイプよね」 下ろしツインテールに言葉よりも仕草で行動することが多い加賀睦美がこの時は珍しく喋った。 「でもわたしが入っている手芸部の顧問で怖いとこはそんなに見せないけどね。福尾先生」 郁子が自分のクラブの顧問である福尾先生のことを安里に教えてあげた。それでも安里は浮かない顔をしており、磯貝四丁目に着くと郁子たちと別れた。 『ベルジュール磯貝』のエントランスホールに入った所で同じマンションの一つ上に住む脇坂迅と出会った。脇坂くんは紺色のパイピングブレザーにネクタイ付きシャツと指定バッグの舟立高校の制服を着ていた。 「真魚瀬さん、久しぶり。保波高校でも始業式だったんだ?」 「ああ、脇坂くん。久しぶり……。元気そうで」 安里は脇坂くんに返事をする。 「彼氏とは同じクラスになれたの?」 脇坂くんがからかうように尋ねてきたので、安里は心がびくついた。更に脇坂くんは続けて言ってきた。 「二月の終わりにさ、おれ学校の友達と一緒に駅ビルへ遊びに行っててさ。そしたら見ちゃったんだよ。真魚瀬さんが男友達と一緒にレストランから出てくるところを」 その日は神奈くんの告白を受けて恋が実った日だった。だけど偶然安里が神奈くんと一緒にいるのを目撃してしまった脇坂くんにとっては、恋の失った日であった。 「真魚瀬さんに彼氏がいたのならさ、おれとは同じマンションの住人の付き合いでいいからさ。じゃ、先行ってるな」 そう言って脇坂くんは階段を昇っていってしまった。脇坂くんの言葉を聞いて、脇坂くんの気持ちを安里は知ったのだった。 (脇坂くん。正直に言えなくてごめんね。わたし、神奈くんを選んでいたのを) 脇坂くんは階段を昇りながら静かに泣いていた。先に行ったのは安里に今の自分を見せたくなかったからだった。 安里は四〇三号室の自分の家に着くと、制服から普段着のカーディガンとTシャツとキュロットに着替えて昼食を済ませて、私室のベッドに寝転がった。やるべきことは今日までやったし、勉強は授業期間に入ってからにして、安里はどうせなら神奈くんの様子を確かめようとメールを送ろうとして、携帯電話を開こうとした時だった。ルルル……と携帯電話の着信音とは違った貝型通信機、シュピーシェルの呼び出し音が鳴った。 「も、もしかしてマサカハサラが!?」 安里はシュピーシェルを開いて、上蓋に法代の姿が映し出される。法代は緑の衣装のアクアティックファイター姿であった。 『安里さん、マサカハサラのハマヤーンが海神町との境目の森林地区に現れました! 救援願います!』 マサカハサラが出たのなら、水妖精の勇士である自分たちがやるしかない。安里は法代からの通信を受け取ると、マンションを出て現場へ向かっていった。 海神町と磯貝地区の境目にある森林地区は楠や楢などの木の他、当然ここへお花見に来た人たちもおり、マサカハサラの巨漢幹部のカウィキテフが巨大なコガネグモのハマヤーンを率いて現れたのだ。先にハマヤーンを発見したのは法代で、学校でクラブを受けていた炎寿と始業式はまだだった比美歌が駆けつけてきてくれた。 コガネグモのハマヤーンは森中に白い網を張り巡らせ、逃げ遅れた一般人はクモの巣に捕まった虫のごとくクモの巣の中をもがいたため身動きが取れなくなった人もいた。変身した炎寿が自分の放つ火の粉を使って捕まった人たちのクモ糸を溶かしている頃は比美歌と法代がハマヤーンと戦い、ハマヤーンはクモ糸を尻から出して森の上に張ったクモの巣を移動したり、二人の出した攻撃をクモ糸で繭玉を作って防いだりと回避していた。 「いい加減降参して、長のコレクションとなれ、妖精たち」 杉の木の高めの枝にいるカウィキテフが比美歌たちに言った。比美歌たちははぁはぁと息を散らし、肩を揺らしていた。 「ハマヤーンが出現するにつれて、わたしたちの行動パターンを把握してきているような……」 法代が手賀沼でゲンゴロウのハマヤーンの時もそうだったようにカウィキテフに問いかけてくる。 「そりゃあそうだ。我が科学者のアーキルラースが日々研究してハマヤーンの能力を上げているからな」 カウィキテフの解き明かしを聞くと、炎寿は口をへの字に曲げる。 「珍しい生き物を狩ってはコレクションにして、典型的な生き物を捕まえては改造してハマヤーンにする……。世界中の動物愛護法がもっと厳しかったら、マサカハサラは国際的な犯罪者になっていただろうに」 「もう珍しい生き物を狩るのはやめて、クーレーも助けてあげて! どんな生き物でも生きていくことを貫こうとしているんだから!」 比美歌がカウィキテフに訴える。 「それは出来ないな。何故なら長しか実行権がないからだ。ハマヤーン、こいつらを捕らえろ」 クモのハマヤーンはカウィキテフの命に従い、クモ糸を三方に出してきて比美歌たちを捕らえようとしてきた。 「マーメイド=アクアウェッジ?」 別の方向から光を帯びた水の楔が飛んできて、クモ糸が千切れてぼたぼたと地面に落ちる。 「みんな、お待たせっ!!」 比美歌たちが水の楔が出てきた方向を目にすると、紫のヒレの意匠にフィッシュテールスカートに深いピンクの髪の姿に三又槍を持った安里が駆けつけてきたのだ。 「おお、来たか!」 炎寿が安里を目にして歓声を上げる。 「気をつけて。今回のハマヤーンはすごく手ごわいから!」 比美歌が安里に教えてきた。 比美歌が安里に教えてきた。 「四人そろった所で、ハマヤーンのクモ糸で捕まえて長の元へ送ってやる。ハマヤーン!!」 カウィキテフはハマヤーンに命令し、ハマヤーンは自身のクモ糸とクモの巣を使って四人に向かってくる。 「炎寿は剣を出してクモの巣を切って! 比美歌ちゃんはハマヤーンの囮に! 法代ちゃんはハマヤーンの動きを減らして!」 安里は仲間たちに司令を出し、三人は安里の指示に従う。 「了解?」 比美歌は翼を羽ばたかせて空中を舞いハマヤーンをおびき寄せる囮となり、ハマヤーンは複眼で比美歌の動きを目にして比美歌を追いかける。途中でハマヤーンの動きがガクンと揺れて、法代がフレイルを使った技、ウィーディッシュ=エナジーチェーンを応用させたウィーディッシュ=プルラムバインドを使い、地面から出してきた複数の海藻型エネルギーの綱が出てきてハマヤーンの八本の脚を拘束した。 「バイパー=ヒートピラーレイジング!!」 炎寿がチャームを変形させた長剣を振るって、剣の刀身から赤い火柱を出して火柱はクモの巣を点火させていきクモの巣は火がつくとメラメラと燃えて落下していき、ハマヤーンに当たってハマヤーンは悶える。 「くそっ……」 カウィキテフは妖精たちを捕らえるためとはいえ、良かれと思ったクモのハマヤーンが妖精たちのチームプレーで敗れるなんて思ってもいなかったことに歯ぎしりした。 「マーメイド=トリアイナスラスト!!」 安里が槍から光をまとった三筋の水流を出してハマヤーンに向けて放った。光の水流はハマヤーンに当たりハマヤーンは次第に体が収縮していき、攻撃が止むと一匹のコガネグモになって森の茂みの中に入っていった。 「さぁ、次はあなたが向かってくるの?」 安里がカウィキテフに視線を向けてきた。 「くそ……。お前らがこんなに手強いんじゃまた策を練らなければならない」 捨て台詞を吐くとカウィキテフは走って去っていった。 森林に来ていた人たちは皆無事で、安里たちも普段の姿に戻って家に帰ることにした。森近くの住宅街を歩いていると、神奈くんが三人のクラブ仲間と共に安里たちと出会ったのだった。 「か、神奈くん!? それに中嶋くん、小嶋くん、大嶋くんまで」 神奈くんたちは四人とも保波高校の制服姿で、長身の中嶋くんが安里たちにこう言ってきたのだ。 「さっきスマホのネット情報を見つけていたら、磯貝町と海神町の境目の森ででかいクモが出たっていうから、見に来たんだよ」 中嶋くんが自分のスマートフォンの映像を安里たちに見せた。スマートフォンのツイッター投稿には、確かにクモの巣とハマヤーンの姿が映し出されていたのだ。安里たちはその映像を見てギョッとなるも、落ち着きを払って返事をした。 「へ、へぇー。こんな物騒なことが……」 安里はハマヤーンを倒したのが自分たちとバレないように振舞った。 「でもさぁ、このツイッターの十分後には怪物がいなくなったって言うんだぜ。しかも目撃情報によれば、こんなのが映っていて……」 小柄な小嶋くんがその後のツイッター画面の画像を安里たちに見せた。そのツイッター画像にはアクアティックファイター姿の安里たちが映っていたのだ。安里たちはそれを見て声を上げなかったが、目をひん剥かせた。 「でもよ、この子たちって以前神奈と出会ったことあるんだよな? 去年の秋ぐらいに」 一番の巨体である大嶋くんが神奈くんに尋ねてきた。 「ああ。さっきバスケ部の練習終わりにこのツイッターを見てみたら、偶然この映像があって学校の近くだったから様子に見行ったら、あの子たちが退治してたんだな」 神奈くんは呟いた。安里は神奈くんの様子を見てどぎまぎしていた。アクアティックファイターの件は秘密にしていたからだ。 「もうおれたちは学校に戻るよ。真魚瀬、みんな。じゃあな」 「あ、うん。またね……」 神奈くんたちが学校に戻っていったのを目にして、比美歌と法代も安里と炎寿に伝えてきた。 「わたし、これから写真撮影があるからもう行くね」 「わたしも母からお使いを頼まれていて……」 「ああ、そうしてきな。また今度な……」 炎寿は比美歌と法代に促すと、安里と共に二人を見送った。ツイッターの投稿主は全く知らない人のものらしく、安里はクモのハマヤーンの現れた場所に来ていた一般人が撮影投稿したのだろうと察した。 (今回は神奈くんにアクアティックファイターのことがバレずに済んだけど、もし知られちゃったら神奈くんとの関係はどうなるんだろう……) 片想いがようやく両想いになれたのに。バレンタインでの努力が報われたのに。安里は自身の右手首のリングブレスを左手で握った。アクアティックファイターとしての使命も担っていきたいし、神奈くんとの恋も保っていきたい。 もしかしたら自分の本当の敵は人間社会やミスティシアをおびやかす輩ではなく、自分の平穏や日常の崩壊なのではないのか、と安里は悟った。 |
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