その2・5話 ママの里帰り兼伯母さんの説得


 慎が学の所に行ってから十日が経った。入学式が済み、各クラスの学級委員長や係、クラブや委員会が決まり、授業も始まり、いつもと変わらぬ日々が始まった。のだが……。

 四月二十日、学校の授業で『ぼく・わたしの将来』というテーマが出てきた。出席番号順に生徒が自分の名前と将来なりたい職業や仕事とその理由を語ってみんなに発表する形式なのだ。

「次、岩永智実くん」

「はい」

 トミーは席から立ち上がり、自分の将来をみんなに話した。

「ぼくの夢は柔道の選手になりたいです。今は柔道教室に通っている程度だけれど、中学や高校でレギュラーになって、大学に入ってインターハイに出て、オリンピックに出たいです。もしなれなくても、両親が経営する小料理店を継いで働きながら柔道を教えたいです」

 トミーの発表を聞いたみんなは、パチパチと拍手をした。次は夕日の番であった。

「山代夕日。将来の夢はファッションデザイナーになって、自分のデザインした服を女の子たちに着て貰うことです。そしたら服飾科のある高校、もしくは高校卒業後に服飾学校に行こうと思います」

 それから次々と進んでいき、慎の二つ前の啓治になった。

「ぼくは将来は警察官か自衛官になろうと考えています。警察官なら悪い奴をとっちめて、自衛官なら大切な人を守ろうと思っています」

 堂ヶ崎先生もみんなも不良っぽい啓治とは意外な面に感心した。

「高岡くんは公務員か……。そりゃいいことだ」

 堂ヶ崎先生が言った。啓治のあとは女の子で、とうとう慎の番になった。

「ぼくは……ぼくは……まだ将来の夢が見つかっていません……。なりたい職業も仕事も思いつきません……。以上……」

 慎は浮かない顔をして、みんなに「今の自分」を話した。みんな目を丸くして、すとんと席に座る慎を見た。そしてそのまま、全員の発表の将来が終わった。その日の放課後、慎は堂ヶ崎先生と教室に残った。

「前川くん、あれ言ったのは本気かね?」

「はい」

 先生の真剣なまなざしを見て、慎は答える。

「本当に見つかりたい事やなりたい仕事が思いつかんのかね」

「……はい」

 慎は間をおいてから答える。

「前川くん。まだあせることはない。君はまだ十歳だ。君の他にも思いつかない生徒や人間はたくさんいるよ。小学生で夢を見つけた人もいれば、社会人になってから夢を見つけた人もいるさ。そうくよくよ、気ままにやりなさい」

 先生は慎の肩に手を置いた。

「学くんは……もう農家を継ぐって考えているんです。有名な学校に行って有名な企業に就くより向いている、って言うんです。何かそれがもの悲しくって……」

 慎がポツリと先生に言った。

「君は君、学くんは学くんだよ。君は君なりにやればいいよ。もしかしたら明日見つかるかも知れなし、中学や高校かもしれないし。先生の知り合いにも大人になってからやりたいことを見つけた人、いたんだから」

 先生は慎にその人の話をした。

「その人は公立の小中学校、県立高校、平凡な大学の社会学部に入って、市役所の職員になったけど、二十七歳である劇団の劇を見て、劇を演出する人になりたい、と決めたんだよ。親や兄弟や知り合いの人は反対したけど、彼は市役所をやめて、劇団の演出家の勉強をして、三十歳で演出家デビューして、今に至るのさ」

「それ、本当……!?」

 慎が訊くと、先生はにっこりと頷いた。


その後慎は家に帰り、居間でネームを描いているママと一緒にパパの帰りを待った。

ネームを描いている時のママは神経質になっており、慎はママを刺激しないように静かにテレビを見ていた。その時、ルルル、と電話の鳴る音がして、ママは鉛筆を置き、ずかずかと電話のある廊下に出た。

「はい、もしもし。前川です」

 折角ネームが進んでいたのに、と苛つく口調で電話に出た。

「前川恭子はわたしですけど……。って、お兄ちゃん!? 卓治お兄ちゃん!?」

 ママは電話の相手が自分の兄と知って、態度を変えた。

「お兄ちゃん、どこでうちの住所と電話番号を……。お姉ちゃんの手帳を拝借? それでお姉ちゃんは? まだ浦安の実家にいる? ずっと部屋に閉じこもっている? 貞晴さんの迎えがこなくて、愚痴っている? 何? 悪いけど今度の土日に来てほしい? ……わかった。お姉ちゃん説得しに行くよ」

 そう言って受話器をおろした。慎が居間から顔を出してきて、ママの顔を見る。

「誰から?」

「ママのお兄ちゃんの卓治って人。慎、悪いけどあんたを一人にしたら困るから、一緒に来て? その時の土日パパは働いているし」 

 ママは眉毛をハの字にしながら慎に言った。


 その週の土曜日、慎はママと一緒にママの実家がある浦安市へと向かった。九時二十四分のバスに乗り、四方道駅から千葉で乗り換え、更に蘇我で乗り換え、銀色の車体に紅色のラインの京葉線に乗った。ママは大きなトートバッグを肩に下げ、慎はオリーブグリーンのパーカージャケットとボーダーシャツと青いハーフパンツと緑のスニーカーの姿に背中の紫のデイパックには着替えと下着と洗面具などのお泊り用具が入っている。

 土曜日の電車は出勤や部活動、日帰りの出かけなどの人でいっぱいだったが、慎とママは何とか席に座れ、慎は首をひねって窓から見える湾岸地帯の景色を目にした。

 空は澄みきった青で白い雲が浮かび、海に浮かぶ船や港、工場や倉庫が見えた。出発してから二時間後、慎とママは浦安駅に到着し、ディズニーランドが見える南口とは反対に静かな北口へと行き、迎えの車が来るのを待った。ロータリーの端っこでスマートな形の水色の自動車が停まっていた。

「あれが迎えの車よ」

 ママが慎に言い、慎が運転しているのが誰かと見ていると、二十代後半の女の人が乗っていた。ボブカットにノーメイク、細い眉に大きな虹彩とおちょぼ口の女の人である。

「前川恭子さんですか? わたしは中森家の家政婦の平賀吉美といいます。四年前から中森家に仕えている者で。初めまして」

「初めまして、平賀さん。この子はわたしの息子の慎」

 ママに促されて慎は頭を下げる。

「は、初めまして。前川慎です」

 慎とママは吉美さんことヨシさんの運転する車に乗ると、ビル街と一般住宅街を抜けて坂の上を上り、丘の上の高級住宅街『サンセット・ヒルズ』に入った。慎はママの実家を見て驚いた。家が邸で庭も広く、立派だということを。ヨシさんに案内されて中に入ると、男の人とママより若い女の人が立っていた。女の人は五、六歳くらいの女の子の手を引いている。卵型の顔にまん丸い目と高い鼻とすっきりした口と長い髪をピンクのリボンでツインテールにしており、ピンクと白のワンピースを着ている。

「お兄ちゃん、久しぶりね」

 ママは男の人にこう言った。慎はこの男の人がママのお兄さんの卓治おじさんと把握できた。

「は、初めまして。前川慎です…」

 慎は卓治おじさんの顔を見て、ママと面影が似ていることを察した。

「初めまして、慎くん。わたしは中森卓治。君のお母さん、恭子の兄だ。こっちが妻の安利。それから娘の紗里奈だ」

「初めまして。紗里奈も初めまして言いなさい」

 長い髪の安利叔母さんは紗里奈ちゃんに促した。紗里奈は安利叔母さんの後ろに隠れている。恥ずかしがり屋なのかもしれない。

「初めまして、紗里奈ちゃん。ぼくは慎」

 二組の親子が玄関で往生していると、カヤさんがやって来た。

「卓治さま、恭子さま。ここでは何ですから中にお入りください」

 慎とママは中に入り、長いフローリングの廊下を渡って、居間の中に入っていった。居間も慎の家の居間よりは二倍半はあり、ベルベッドのソファに暖炉、アンティークらしいチェストなどの家具、壁には画商から買ったらしい花畑や空や雪山の絵が飾られていた。慎はママの実家の豪勢さに目を見張る。

「座って。今、お茶を持ってくるから」

 安利叔母さんに言われて、ママと慎は二人掛けのソファに座る。向かいの三人掛けのソファには卓治おじさんと安利叔母さん、その間の一人掛けのソファに紗里奈が座る。

「二十年ぶりに帰ってきたら、こんなに変わっているなんて思いも思わなかったわ」

 ママは卓治おじさんに言った。

「ははは、安利の実家は輸入家具の社長一家だからね。それよりも……」

 卓治おじさんは本題に入る。

「何とかして久子姉さんを栃木県に帰ってもらわないとねぇ。うちの娘がある日突然、伯母さんがやって来てから、家にいる多くの時間を一階で過ごしていて、自室のある二階へ上がりたがらないんだよ」

「紗里奈ちゃんが? どうして?」

 ママが卓治おじさんに訊くと、安利叔母さんが答える。

「うちの子、発達障害なんです。突然の雰囲気や予定の変更に動揺する子なんです」


 その後はみんなでカヤさんとヨシさんが作ったオープンサンドを食べ、食べ終わるとヨシさんは片づけ、慎と紗里奈は一階に残ってボードゲームやテレビゲームで遊んでいてと互いの親から言われ、カヤさんとママと卓治おじさんは久子伯母さんのいる部屋へサンドイッチと紅茶を乗せたおぼんを持ってやって来た。二階の部屋は十室あり、夫婦の寝室と卓治おじさんの書斎、安利叔母さんの仕事部屋に紗里奈の部屋、他には客室として使われている部屋とおじいちゃんの仏壇がある和室がある。久子伯母さんは仏壇のある奥座敷の隣の部屋にいた。和室の入り口と伯母さんのいる部屋は引き戸だが、後は開閉式のドアである。

「久子さん、久子さん、お昼ごはん持ってきましたよ。開けてくださいな」

 カヤさんが引き戸を叩いて久子伯母さんを呼ぶ。しかし返答がこない。

「いつもカヤさんかヨシさんがご飯を運んでいるの?」

 ママがカヤさんに訊く。

「はい。トイレと入浴以外はいつも閉じこもっていて……」

「何それ! 完全な引きこもりじゃない!」

 ママが久子伯母さんの現状を知ると、ママはカッとなった。若い頃はがり勉であったけど、有名学校や有名企業にも入っていた時は病気や法事以外は休むことなんて一切なかったのだ。ママにとってはバリバリ現役の久子伯母さんが姉らしいと思っていた。

「お姉ちゃん、開けなさい! お姉ちゃん!」

 ママは引き戸を何度もノックする。だが反応がない。

「ええい、じれったい」

 ママは強引に戸を引っ張り、無理やり入ろうとした。だが内側からつっかえ棒をかけられているため、開かない。しかしママはあきらめなかった。何度も戸を揺らし、ガタンとつっかえ棒が外れると、やっと戸を開けることができたのだ。

「お姉ちゃん……!!」

 久子伯母さんが居座っている和室は六畳間の畳部屋で押し入れと床の間がある。久子伯母さんのトランクから無造作に服が出ており、部屋の生成りのカーテンは閉ざされ、窓も閉めっぱなしで空気がこもっていた。そして久子伯母さんは部屋の中心にひざ立て座りをしていた。九ヶ月前と見違えるほど、恰幅のよい体型はかかしのようになっており、髪はぼさぼさで目も死んでいる。服装もシャツとスエットパンツである。

「恭子……」

 久子伯母さんはママに視線を向ける。

「お姉ちゃん、どうして実家に……」

 久子伯母さんはママに冷たい視線を向け、卓治おじさんも入って来た。

「姉さん……」

 弟と妹を見て、久子伯母さんは二人に怒鳴り散らした。

「あんたたちは二人ともバカだよっ!!」

 突然久子伯母さんがそう言ってきたので、ママと卓治おじさんは「は?」の顔をした。