その1・8話 学の引っ越し


 翌日の火曜日の夜にお父さんが帰ってきた。

「あなた、お帰りなさい。お父さんは大丈夫らしいわね?」

「ああ。そのことなんだが……。」

 お父さんはふーっと吐いた後、顔を上げてお母さんに言った。

「学と美鈴を呼んできてくれないか。話があるんだ。」

「話?」

 学と美鈴も呼び出され、一家は居間に集まった。

「それで話って何?」

 お母さんが尋ねると、お父さんは言った。

「会社を辞めて、実家の農業を継ごうと思う。」

「ええ――っ。」

 学と美鈴は叫び、お母さんは仰天した。

「あ、あなた、何言っているのよ! あなたは農家をやりたくないから、会社で働こうって決めたんじゃないの?」

「若いうちはそう思っていたよ。でもな、親父が動けない今は誰もやってくれないんだぞ? おれは会社に就職したが上手くいかず万年平社員……。会社のお荷物だって言われてんだ! だったら会社を出て行って、農家をやる他ないんだ!」

「ま、まさかわたしたちもついて来いって言うの? わたしは嫌よ。学の塾は? 美鈴の学費はどうするのよ!」

 お母さんが反対すると、子供たちはこう言った。

「お母さん、わたし今の私立中転校して、お父さんの田舎に行くよ。」

「ぼくも。」

 美鈴と学も田舎行きに賛同した。それを聞くと、お母さんは叫んだ。

「美鈴、あなた来年受験生でしょ! 進学はどうするのよ!」

「お母さん、わたしね、有名私立中学向いていないんだよ。成績だって本当はそこそこだし……。高校ぐらい、わたしが決めたい。」

 美鈴は慎に本音を話した時、自分に正直になりたいと思っていたのだった。好きで入ったのならともかく、親に言われて入ったのは正直、軽い気持ちではなかった。

「ぼくも田舎に行ってもいい。田舎でも勉強は出来るでしょ?」

「でも学。田舎じゃ私立学校に行けないわよ……。」

「もうぼくは最初から私立学校諦めているから。だったら今の成績で入れる学校の方にしといて、高校は向いているとこに入るからさ。」

 学もお母さんに本音を話した。お母さんは肩を落とした。

 こうして後藤家の田舎行きは決定した。お父さんは会社を辞め、マンションの契約を解消した。会社では上司がお父さんが退職して実家を継ぐことを聞くと、「君が会社を辞めてしまうのは仕方ないねぇ。」と言っていたが、足手まといの月給泥棒がいなくなって良かったという表情をしていた。

学の塾も全部辞め、美鈴と学は学校に転校届を出し、お母さんも今の税理事務所をやむを得ず退職したのだった。倉井学園では美鈴の転校がクラス中に広がったが、みんな勉強に疲れたドロップアウターが出てくれてせいせいしたという顔をしていた。

 学の学校では担任の岩崎先生が学のためにお別れ会を開いてくれた。みんな学の転校を寂しがり、それでもクラスのみんなは学にお別れの手紙や花束をあげたのだった。

 学は今の小学校を転校するのは辛かったが、それでも田舎で勉強のない幸せな生活にはかえられなかった。

 六月最後の金曜日、学は偶然慎と出会い、自分の転校と引っ越しを慎に話した。

「ぼくさ、家の都合で転校するんだ――。」

「えっ、転校? 何で?」

 慎は従兄弟の突然の転校に驚いた。

「お父さんが農業を継ぐから、ぼくたちもついていくことにしたんだ。お母さんは嫌がっていたけどね。」

「そうなの……。それでいつ行くの?」

「あさって。」

「あさって? すぐじゃない!」

「うん。だから慎ともお別れだ。」

 学は慎に手を差し出した。

「ありがとな。仲良くしてくれて。」

「うん。あれっ。何で泣いてんだろ。」

 と、慎の眼から二つの涙が零れていた。

「何泣いてんだよ、永遠の別れじゃないのに。おっかしーの、慎。」

 そう言いながら学も眼が潤んでいた。

「学くん……。あと一つ言っていい?」

「何? 言いたいことあったら、話せよ。」

 慎は涙をこすりながら自分の今の気持ちを話した。

「ぼく、これから自分の将来が見つかった時にだけ、その勉強をするよ。学くんの家にいても、ただの当てのない勉強だけだったから。やっと気づいたんだよ。」

「そっか……。」

「それでね、学くん、手紙書いてくれる? ぼくも書くからさ。」

「うん、お母さんには秘密の手紙だからな。もし、将来の夢が出来たら、教えてくれよ。」

 これが学と慎の約束だった。二人が手紙を書くときは、互いの住所を封筒に書かない……。これを決まりとして。

 そして、六月最後の日曜日に、後藤家は栃木県の明峰村へと行ったのだった。


 あれから三週間が経ち、夏休みとなった。慎の家では相変わらずお母さんは仕事場で漫画を描いているし、お父さんはショッピングセンターで働いていて、慎は夏休みの宿題に手をかけていた。

 そして学一家と親戚だったと判明した日の後日からの間に慎と両親は話しあって、自分の将来を考えさせてほしいと言った。慎は小学生になってから、やりたい事や向いているものが見つからず、勉強に打ち込むことしかなかったと話した。それを聞いて慎の両親は慎がかわいそうに思えて、「無理しなくていい。」と言ってくれた。

 それから慎は学校や図書館で『なりたい仕事シリーズ』の本を読みふけるようになって、自分がやれそう向いていそうな夢を探している。

 慎が学校のプールから帰ってくると、緑色の封筒がポストに入っていた。差出人は書いていない。学からの手紙だ。慎は急いで階段を駆け上がり、自分の部屋で封筒を開けた。クローバー柄の便せんには学の生活状況が書かれていた。


『慎へ

 明峰村にやって来てから三週間。ぼくは村立小学校に転校し、お姉ちゃんは村立中学校に入ったよ。新しい学校ではすぐに友達が出来て、放課後では毎日魚釣りや虫捕りに行ったりと楽しいよ。毎日見たいテレビを見られるようになったし、漫画も読めるようになった。もちろん、慎のママが描いている漫画『戦うメイドとおぼっちゃま』も愛読していよ。

 すぐ友達ができたのは、慎のママがぼくの叔母さんで漫画家だということを話したからかもしれないけれど。

お姉ちゃんは中学校に入ると、笑顔が多くなったよ。千葉県にいた時は疲れていた顔をしていたからね。

 お父さんは毎日畑仕事をしていて、野菜を育てているよ。

「肉体労働で疲れるけど、合わない同僚や上司に気をかけるより気持ちいいや。」と言ってる。おじいちゃんもぎっくり腰が治って、一緒に畑仕事をしている。

 お母さんはというとずっと頭脳労働をしていたから、すぐに疲れてしまって使いものにならない。いっつもおばあちゃんに「あんたは一体、どういう生き方をしてきたのかね」と言われている。お母さんは言っていた。「こんなことなら、遊んで鍛えておけばよかった」って。

 実はというと、お父さんの退職宣言で、うちは大変なことになっちゃんだ。

 お母さんが「わたしの教育が無駄になってしまった。」って毎日、ヒステリックを起して泣いていたんだ。お父さんやお姉ちゃんのことは、「逃げた。」ってなじって、会社の出世競争とエリートコースの人生を放棄したと二人をののしっていた。お母さんは中森家のおじいちゃんの教育方針をモットーにしてきたから。

 中森のおじいちゃんは勉強や進路にはすごくうるさい人で、いい学校、いい仕事を目指せの考え方で、お母さんも勉強第一と考える人になってたと思う。エリート人間のプライドなのか、おじいちゃんのマインドコントロールなのかわからないけれど。

 世の中は勉強だけが全てじゃないのにね。サラリーマンや公務員や学者や医者の仕事に就くだけがいい人生じゃないのにね。恭子叔母さんは学才がない代わりに画才があったことでおじいちゃんやお母さんから軽蔑されていて、「落ちこぼれだからってエリート人生から逃げた。」って愚痴言っていた。でもぼくはお父さんやお姉ちゃんや恭子叔母さんは逃げた人とは見ていない。生き方を変えたって見ている。恭子叔母さんは学才はなかったけれど画才があったから漫画家で生きられた。お父さんはサラリーマンが向いていなかったから農業者になった。お姉ちゃんは普通の人だったから自分に向いている人生を選んだって思っている。漫画家は読者に夢を与えてくれているし、農業者は野菜やお米を育てくれているし、役に立っている。

 学校の先生だって勉強の他に人間関係やその人なりの生き方を教えているしね。ぼく自身の意見だけど、中森のおじいちゃんやお母さんはただの堅物だと思う。お母さんはとうとう骨折れて田舎行きについていった。

 もしよかったら夏休みには無理でも五年生になる前の春休みに、慎も遊びに来てよ。おじいちゃんもおばあちゃんも歓迎するって。

 もし、恭子叔母さんの許しが出たら、ぼくも千葉県に遊びに行くからね。


学より』


 慎は学が負担になる勉強から解放されてよかったと心から思っていた。それに手紙に書いてあった学の「生き方を変えた」も全くその通りと思った。

 慎はまだ将来の夢は見つかっていないが、もし見つかったら真っ先に学に話そうと思ったのだった。

 慎は机に座り、青い封筒に学の住所を書き、水色の便せんに返事を書き始めた。


(終わり)