その2・3話 帰省


 居間の障子窓からは雨が降っていた。夜の間に降ったらしい。しとしと降りだが、農作業は出来なかった。農作業のない日の後藤家では子供たちは勉強しているか遊んでいるか、おじいちゃんとおばあちゃんも居間でテレビを見ていたり近所の人を読んだり、貞晴伯父さんも友人の家に行くことがあった。

 朝ご飯はおばあちゃんが作ってくれたけど、みんな浮かない顔をしていた。漬物をかじりながら、慎はみんなに言った。

「……ぼく、聞いちゃったんだ……。夕べ、伯父さんと伯母さんの言い争いが聞こえてきて、それで目が覚めたんだ……」

 慎の夕べの出来事を聞いて、貞晴伯父さんは気まずい顔をした。

「……慎くん、ごめんな。見苦しいもの見ちゃって。でも、久子が出ていったのは慎くんのせいじゃないからな。ご飯食べ終わったら、伯父さんが足利市駅まで送っていくよ」

「お父さん、ぼくもついていっていい?」

 学が伯父さんに言った。

「ああ、いいよ。学は迎えに行けなかったもんな」

 朝ご飯を食べ終えると、慎は二階の部屋のバッグを取りに行き、玄関でおじいちゃんとおばあちゃん、美鈴にあいさつを告げた。

「学くんのおじいさん、おばあさん、美鈴さん、お世話になりました」

「こちらも楽しかったよ、また遊びにおいで」

 おじいちゃんが言うと、外からエンジン音が聞こえてきて、おばあちゃんが慎に言う。

「慎くん、貞晴が車を出してくれたよ。気をつけて帰るのよ」

「慎くん、またね」

 美鈴が手を振った。慎が玄関の引き戸を開けると、貞晴伯父さんが運転するジープがあった。ジープはダークグリーンで、運転席に貞晴伯父さん、中部座席に学が乗っていた。

「さようなら。また来ます」

 慎は後藤家の人たちにあいさつを交わし、ジープに乗り込んだ。車窓から手を振った。外はどこもかしこも雨で、空は灰色、アスファルトの道も黒く濡れ染まり、木の葉や草に雨露が滴っていた。

 帰り道も田畑や渡良瀬川の沿いを走って、町中に入っていった。伯父さんの運転するジープに乗っている間も慎は久子伯母さんのことを気にしていた。

「学くん……。ぼくのママと伯母さんの実家ってどこにあるの?」

「お母さんと叔母さんの実家? 千葉県の浦安だよ。ディズニーランドの近くの。居間実家には卓治叔父さんがいるのに……」

 卓治という名前を聞いて、慎は母方叔父の存在を初めて知った。

「えっ、ぼくのママや久子伯母さんに男の兄弟がいたの!? ママは卓叔父さんのこと……」

 学は卓治叔父さんのことを慎に話した。

「卓治叔父さんはお母さんの弟で、慎のお母さんのお兄さんで私立高校の先生。居間は奥さんと一人娘の紗里奈ちゃんと暮らしているんだよ」

「私立高校の先生……」

 慎は一度も会ったことはないが、母方祖父の中森賢一は千葉県伝説の教育者で有名女学校の校長でもあり、慎のママが言うにはスパルタ教育を行っ(おこな)ていたらしい。学問以外のことは子供たちに禁じ、就職も教師や公務員や医者や学者や弁護士以外の仕事も許さなかったそうだ。慎のママは勉強嫌いで漫画が好きで漫画家になる夢を反対されて、高校を卒業すると家を出て、漫画家になったのだ。

「卓治伯父さんもきびしいの?」

「ううん、あの人は優秀だけど、子煩悩だから、おじいちゃんよりは厳しくないよ」

 慎と学がそうこう言っているうちにジープは足利市駅に到着した。慎はジープから降りて、貞晴伯父さんと学に別れのあいさつをした。

「それじゃあね、慎。また手紙書こうな」

「慎くん、気をつけて帰るんだよ」

「伯父さん、送ってくれてありがとう。学くん、またね」

  二人が乗ったジープは駅前から出て、慎は駅構内の中に入り、お土産屋で両親と学校の中のいい友人と近所の夕日一家に渡すお土産を買った。両親には栃木産はいちごのまんじゅう、友人には足利名所のポストカード、夕日一家には栃木産いちごのチョコクランチを買った。帰宅時には両毛特急に乗って浅草まで行き、浅草からJRで帰る。両毛特急に乗る乗車券は駅員さんから教わって買った。その後はホームで他の乗客と一緒に乗車し、指定席の窓から移りゆく景色を見ながら眠ってしまい、起きた時は終点間際だった。浅草駅の到着後は都内バスでJR浅草駅まで行き、浅草駅から電車に乗って、東京と千葉駅で乗り換えて、午後二時半に四方道駅に着いた。昼ご飯は東京駅で駅弁を買って食べ、上りと下りのホームが二つある四方道駅に着くと、駅構内の公衆電話で家に電話をかけた。改札口では四方道に帰ってきた人や四方道をこれから出る人でいっぱいだった。

「もしもし、パパ? 今、四方道駅に着いたよ。北口に来る? うん、待ってるよ」

 その後は北口の階段を下り、四ヶ所を行くバスロータリーのベンチで、パパが来るのを待った。幸いロータリーには雨よけの屋根がついていたから雨には濡れなかった。北口の前には十字路と古いお店が並び、ロータリーの西と北の先に自転車置き場がある。

 駅に着いてから十分後、バスロータリーの端っこに見慣れた赤銅色のセダンが入ってきた。慎のパパが運転するセダンであった。

「パパだ」

 慎はベンチに置いてあったバッグとお土産の紙袋を持つと、急いでパパのセダンに入った。

「お帰り、慎」

「ただいま、パパ」

 慎は車内の後部座席に荷物を置き、中部席に座ってシートベルトをつけ、パパに言った。セダンは雨の中を走り、公園も住宅街も郵便局も地元のスーパーも通り抜けて、慎の住むマンション、『レジデンスいつくしが丘』に向かっていったマンションの駐車場マンションの隣にあり、マンションと同じ三階建てで小さい。『レジデンスいつくしが丘』は白いプレハブ造りのマンションで、慎の部屋は三階の一部である。『315』のドアを開けると、慎は帰ってきたという実感を味わった。

「疲れているなら休みなよ。ご飯には起こしてあげるから」

 パパがそう言ったので、慎は頷いた。玄関を開けてすぐの部屋が慎の部屋。マンガや児童書が並ぶ本棚、クローゼット、五歳の時から使っている学習机、脚付きマットレスのベッド、国旗柄のカーテン、フローリングの床には白と薄緑のパネルカーペット、そして学習机の近くに置かれているエメラルドグリーンのランドセル――。学の使っているランドセルは黒かった。それから壁にかかっているテレビヒーローのカレンダーを見る。今日は四月三日。

(明後日、始業式だ。学校の友達にはその時に渡して、夕日には明日渡すか)

と、その日買ったお土産のことを考えた。それからはマットレスベッドの上で昼寝した。

 慎が起きたのは夕方の五時で、外の雨は小雨となっていた。

「ずい分寝ちゃったな。あっ、そうだ。学くんの家に着いた、って電話しなきゃ」

 慎は部屋から出ると、家の廊下にありFAX付き電話に手を伸ばし、学の家に電話した。コール音が三回鳴ったところで、受話器を取る音がした。

『もしもし』

 受話器を取ったのは美鈴であった。

「あっ、美鈴さん? ぼくです、慎です。二時間前に四方道に着いたんだけれど、帰ってきた時に寝ちゃって……。あ、今は自宅のマンションにいます」

『ああ、慎くんはちゃんと家に帰れたのね。うちはまだ学とお父さんが帰ってこなくて……』

「どうしたんですか?」

『お昼の時にお父さんが電話をかけてきたんだけど、慎くんを送った後に足利市内を駆け巡ってお母さんを探しに行ったのよ。けれど、手掛かりなしで……』

 美鈴の話を聞いて慎は動揺した。

「ま、まだ久子伯母さん、見つかっていないんですか……?」

『慎くん、気にしないで。もしかしたら、明日自分から帰ってくるかもしれないし、またお父さんが農作業のない日を縫って探して見つかるかもしれないから……。慎くん、お父さんとお母さんによろしく言っておいてね』

「はい。ありがとう、美鈴さん」

 慎は受話器を置いて、全身の力が抜けた。

「そうかぁ、久子伯母さん、まだ見つかっていないんだ……」

 次の瞬間、また電話が鳴った。慎が受話器を取ると、それは一丁目の仕事場にいるママからだった。

『あら、慎。帰ってきたの。お帰り』

「ただいま、ママ……」

『慎、よっぽど疲れているみたいね。パパは今、夕ご飯の買い出しに行っているから。ママは七時まで帰ってくるから。帰ってきたら、栃木のお話、聞かせてね』

「うん、ママ」

 慎は受話器を置いて、居間の電灯とテレビのスイッチを入れて、千葉県ローカル放送のテレビアニメを見て、両親が帰ってくるのを待った。

 慎は両親の仕事は違うが共働きで、どちらかが先に帰ってきた時には二人でもう一人の帰りを待っていたけれど、二人とも仕事がひびく場合は近所の人や前のマンションの大家さんに預けられた。最初のマンションは2LKの小さな部屋で、幼い子一人じゃ危ないということで、慎と歳の近い子がいる家に預けられることがあった。特に仲が良かったのは、一階上の千沙太(ちさた)くんで、三年生の一学期まで、慎と親友で学校もクラスも一緒だった。今でも千沙太くんとの文通は続いている。そして去年転校してからの仲良しの岩永智実(いわながともみ)ことトミー、学と仲良くしていた高沢啓司(たかさわけいじ)とも仲良くしている。一人で留守番が平気になったのは三年生からだった。もちろん両親が二人ともいない時は仲のいい同級生も連れてきたが。

 ガチャリという音がして、背の高く体躯のいい慎のパパが買い物の麻バッグを持って帰ってきた。

「パパ、お帰り」

「慎、起きたか。今、ご飯を作るから。今日はラザニアだぞ」

 慎の家ではパパかママがご飯を作ってくれる。もちろん、どちらかが家にいる時だが。台所のオーブンから肉とトマトの焼ける匂いがした頃、長いウェーブヘアに四十近い女性にしてはスリムジーンズとチェック柄の入った水色パーカートレーナーを着た慎のママが帰ってきた。

「た〜だいま〜。慎、お帰り」

 ママが長い髪をひっつめて赤いシュシュで束ね、ファンデーションに濃いめのアイシャドウと口紅の化粧をしている。人気漫画家、三日月ルルナのペンネームを持つ。

「ママ、お帰り」

 慎はママに言った。それからして、台所より小さめのダイニングでラザニアとシーザーサラダとキノコポタージュの晩ご飯を食べた。そして三人で食べながら、慎の栃木県旅行の話を聞いた。

「学くんの友達、喜んでいたよ。ママのイラスト入りサイン。忙しいのに描いてくれて……」

「そんなことないわよ。親戚に漫画家とか役者がいるってのは、充分な誇りよ」

 ママはフォークでサラダをつついて頬張る。

「それにしても、貞晴さんは大変でも農業を続けられるんだな。パパだったら農業なんてやれないよ。都会っ子だから」

「うん、農業はパパとママには向いていないよ。久子伯母さんなんて……」

「お姉ちゃんがどうかしたの?」

 ママは久子伯母さんのことを慎に聞いた。

「うん。農業が辛くてすっごいやせて、顔色が悪くなって、ぼくが学くんの家を出発する前に……家を出ていったよ。浦安の実家に、って学くんが言っていた」

「ええっ!?」

 パパとママは驚いてハモった。

「ちょ……、あの家にはお兄ちゃんが残っていて、結婚して子供がいるかもしれない、ってのに……」

 ママは二十年前に浦安の実家を出て、自身の兄や姉や父親のことは長い間、音信不通のまま生きていった。パパはママに兄と姉がいることは慎が生まれる前から聞いていた。

「久子さんが家出……」

「お姉ちゃん、辛いことには早々逃げたりしない人だったのに……」

 パパはぽかん、ママはあきれていた。

「ご飯食べたら、お姉ちゃんにメールしなきゃ」

 ママは去年の夏休みから、久子伯母さんとメールでやり取りしていた。正しくいえば、久子伯母さんが一方的にママに農業の辛苦をこぼすメールを送ってくるのだ。ママはそのメールをあまり残したくなくて、「仕方ないから合わせろ」と返信したのち、愚痴メールを消していった。

「慎、あとで学くんちの家の電話番号を教えて。お姉ちゃんのことで聞きたいことがあるから」