その2・1話 慎の足利一人旅



『――次は足利市駅、足利市駅です。お降りの方は、お忘れ物のないようにご注意ください』

 緑の田んぼの中を走る赤い特急『両毛』で、前川慎(まえかわ・しん)は足元に置いてあった紫の肩掛けスポーツバッグを持って、下車の支度をした。特急が足利市駅に到着すると、出張しに来たサラリーマンや家族旅行をしに来た一家などの乗客を一緒にホームに降りた。足利市駅のホームから見える景色は慎の住んでいる千葉県とは似ているようでちょっと違う。

 足利の町並みは家々や小さなビルが並び、道の街路樹も花をつけ、中に混じって緑に包まれた小山があるのだ。四月だというのに空気は冷たく、コートが必要で、液にいる人たちも薄手のコートやフリースジャケットを羽織り、慎も黒い薄手のダウンジャケットとジーンズ、靴は動きやすい緑のベルトスニーカーである。ホームの階段を下りると、改札口の構内にガラス張りの待ち合い室と黄色のプラスチックベンチと自販機、改札口を出ると黄色と赤の看板のコンビニとファーストフード店、右は南口、左は北口と書かれ、南口にはバスが二代止まっており、蛍光グリーンのジャケットを着た人たちがお客さんに呼び掛けていた。北口にはタクシー乗り場のようだが、道路にはスロープがある。駅には部活から帰るところの女子高生やバスから降りてきた男の子と女の子の幼い姉弟を連れて駅に入る夫婦、タクシー乗り場から降りてきたビジネスマンなどが出入りしていた。慎は迎えが来るまで、駅構内の柱に寄り添った。

(学(まなぶ)くんと会うの、九ヶ月ぶりだなぁ――)

 慎は足利市駅に着くまでの間、自分と同い年のいとこ、後藤学(ごとうまなぶ)に遭うまでのいきさつを考えていたのだ。慎と学が出会ったのは千葉県西部にある四方道市の小学三年の時。慎はパパの転勤とママの仕事場の引っ越しで、生まれ育った野田市から四方道市の小学校に転入した。学とは九ヶ月前の事件まで、そっくりさんだと思っていたのだ。背丈も体格も顔立ちも目つきも声も見た目だけではどっちが学でどっちが慎だかわからないほどであるが、学は九月生まれでO型、慎は十一月生まれでA型、成績は学が下の上で慎が上の中という学力、食べ物や教科の好き嫌いが違うぐらいであった。

 慎は青いベルトにデジタル文字盤の腕時計を見ながら、迎えを待った。それから駅内の灰色の公衆電話でパパの携帯電話とママの職場に無事栃木県についたことを話した。

「うん、うん。大丈夫。じゃあ、学くんの家に着いたら、また電話するから」

 そうママに伝えて受話器をおろし、ウサギの写真のテレフォンカードを抜くと、自分を呼ぶ声がしたので振り向いた。

「慎くん?」

 声の高い女の人の声だった。慎の後ろには長い髪の毛を紺色のシュシュで後ろにまとめていて、レモン色の薄手のフリースに灰色のデニムパンツを着、黒いスニーカーをはき、逆三角形の顔に小高い鼻と切れ長の目をした女の人が立っていたのだ。ファンデーションとピーチベージュの口紅とシルバーグレイのアイシャドウという薄手の化粧をしているが、慎のママと歳が近そうな女の人である。

「あの……、乃菜(のな)叔母さんですか?」

 慎が女の人に訊いてみると、女の人は「そうよ」と答えた。

「慎くん、初めまして。わたしは学くんのお父さんの妹の内田乃菜です。学くんのご両親が農作業で行けなくなったから、わたしが来るってことは前から聞いているわよね」

「はい」

「それにしても慎くんは学くんそっくりなのねぇ。流石遺伝子って偉大だわぁ」

 乃菜叔母さんはからからと笑い、慎を北口の近くに止めてある自分の車、銀色のミニバンに乗せた。乃菜叔母さんが自動車を動かすと、自動車は走り出し、スロープ坂を上り、四月の午後の足利市内を進んでいった。慎がミニバンの後部座席から見た景色は駅のホームで見た景色よりも一そうきれいだった。

 空は日暮れが近くなっており、薄青くなっていて太陽が西に傾き、空はちぎれた綿のようになっていて、町には歩道に人々、十字路の多い商店街には布団屋や反物屋や小じゃれた和菓子屋や喫茶店などの店舗が並び、車道の車は千葉県ほど渋滞しておらず、足利町中博物館や足利学校や足利美術館の名所の看板が見え、博物館や美術館は小ぶりのビルで中までは見えなかったが、この町にしかなさそうな展示品がありそうだと慎はふんだ。

 慎を乗せたバンは町中を出て、草地と大きな橋のある渡良瀬川の景色に変わった。渡良瀬川の水は澄んでおり、石がたくさん転がった土手や川の中心に浮かぶ草の生えた足場には白サギが止まっていた。渡良瀬川の岸辺には遊具やベンチなどの道具が設置されており、幼稚園ぐらいの子が母親らしき人に連れられてブランコをこいでいたり砂場で山を作っていた。川の近くの公園なんて四方道市では絶対見れない光景であった。

「慎くん、明峰村(あかみねむら)に着いたら、学くんちの近くにおろしてあげるから。うちも小さい娘がいるから。この時はおばあちゃんが面倒みているけど」

「あ、はい。乃菜叔母さんの娘さんっていくつですか?」

「三つ。これから村内の幼稚園に入るのよ」

 乃菜叔母さんはハンドルを回しながら、慎に言った。バンは片道に入り、景色は田畑や古い和風造りの家や店のある光景になった。田んぼや畑には麦わら帽子と手拭いをかぶって農作業しているおじさんやおばさん、その手伝いをしている小中学生の子供たちの姿も見られた。慎はテレビの情報番組で見たぐらいだが、家が農業やお店の子供は親の手伝いをやっていることは知っていた。

「あの、学くんや美鈴さんもお父さんの農業を手伝っているんですよね? 二人とも勉強だらけの生活から農作業ばかりの生活になって嫌がってないですか?」

 ただでさえ勉強嫌いなのに好きでもない農業をさせられているんじゃ、と慎は乃菜叔母さんに訊いた。慎のパパはショッピングモールの社員でママは漫画家という職業なので慎の家での手伝いは洗濯物の片づけや家の掃除や食器洗いといったぐらいである。乃菜叔母さんはこう答えた。

「ううん、そうでもないみたいよ。あの子たち農業の手伝いを進んでやっているって、兄と両親が言っていたわよ。毎日の塾通いより、こっちの方が向いているそうよ」

「そうなんですか」

慎は学と美鈴が嫌がらずに農作業を手伝っていることにあっけらかんとなる。銀色のミニバンは右側が生い茂る木の山、左側が畑と果樹園の道に入り、その半分を超えた所に「ようこそ、明峰村へ」という白地に青い文字とダイコンやニンジンやゴボウなどの野菜に顔と手足がついたマスコットが描かれた金属柱の看板に目をやった。

 その明峰村は大きな山が村を囲んでおり、山の周辺に田畑や果樹園や酪農家があり、一つの家が五、六つの畑を所有しており、その畑の真ん中に昔話の絵本に出てくるような白い漆喰壁に藁ぶき屋根に木枠の窓の家が立っている。どこの畑や果樹園でも小中学生の子たちが手伝っている。バンは道路から村の中に入り、家の周りがダイコンやニンジンやゴボウなどの根菜畑が六つある家の前に止め、慎は自動車から降りて、乃菜叔母さんに礼を言った。

「ありがとうございます」

 その時、大根畑にいた男の人がハッとして、バンに駆け寄ってきた。

「乃菜。ありがとうな。畑仕事出てのかかっているおれに代わって、慎くんを迎えに行ってもらって……」

「いいのよ、兄ちゃん。じゃあ、わたしはこのまま帰るね」

 そう言うと乃菜叔母さんはバンを走らせて、元来た道を帰っていった。そして慎は男の人を見て驚いた。

「伯父さん?」

 学の父親、貞晴(さだはる)伯父さんは九ヶ月前とはうってつけての姿に変わっていた。前はやつれていて顔色も悪く実年齢よりも老けていたのに対し、今は肉付きが良くなり、肌は日焼けで健康そうな浅黒になっていた。そして服装もくたびれたスーツではなく、Tシャツと厚手の麻のパンツと黒いゴム長靴である。

「慎くん、よく来たなぁ。大きくなったなぁ。学とはまだ文通をやってんだよなぁ」

 貞晴伯父さんはニコニコしながら慎を見て言う。

「えっ、お父さん、慎が来たの?」

 大根畑の隣のゴボウ畑から男の子が駆け寄ってきた。慎と同じ顔立ちに同じ背丈、髪型も似ており、灰色のデニムのオーバーオールと黒いTシャツを着た男の子、学がやってきた。

「学くん、久しぶり!」

「慎、ぼくと同じ背丈だぁ!」

 二人は顔を見合わせた。学と慎は互いの母親が姉妹同士で、二人は両親の外観は受け継いではいないが、母方祖父母と同じ顔立ちであった。

「どうしたの、学? 慎くんがどうのこうのって……」

 裏の畑から作業していた学の姉、美鈴もやってきた。美鈴を見て、慎は目をまん丸くした。以前の美鈴は貞晴伯父さんと同じく顔色が悪くやつれていたのに対し、今は体の肉付きがあり、肌は日に焼けて少し黒くなっており、髪の毛を長い三つ編みからミディアムショートにして、赤紫のTシャツと黒いデニムと長靴を身につけていた。

「美鈴さん……?」

「慎くん、久しぶり! 背が大きくなったわね。一人でわざわざ千葉県からやってきたなんて……」

 美鈴は以前と違って性格も無気力さ以外は見えず、なんか明るくなっていた。変わりすぎなんじゃないのか……、と慎は思った。それから美鈴と同じ場所で作業していたおじいさんとおばあさんがやって来た。おじいさんは一七〇センチだが背筋はしゃんとしており、肌は浅黒く、顔にはしわがいっぱいあり、髪の毛は灰色でほとんどはげていた。おばあさんはおじいさんより一〇センチ低く、長い灰色の髪をまげにしており、紺色のもんぺを着ていた。

「おお、君が慎くんか? 初めまして。わしが学と美鈴の祖父、後藤豊彦(ごとうとよひこ)だ。しっかし、ホントに学にそっくりだなぁ。なあ、ばあさん?」

「ええ、本当に。わたしが祖母の米子(よねこ)です。初めまして」

 学の祖父母は高低のない栃木弁で慎にあいさつした。

「は、初めまして。前川慎です」

 慎は学の祖父母におじぎして、あいさつをする。学の祖父は学に言った。

「学、お前はいいから、慎くんをおうちに入れて世話してやりなさい」

「はーい」

 学は慎を家の中に案内してあげた。学の今の家は木と漆喰でできた和風の家で、屋根は寄せ棟の藁を固めて詰めた屋根で二階建て。家の外は柘植の垣根で囲まれており、庭には家と同じ形の小さな物置小屋と竹でできた物干し場があった。そして木と金網でできた犬小屋があった。犬小屋の中から黒い柴犬が出てきた。

「あずき」

 学が犬にそう言うと、あずきはしっぽを縦に振って慎の匂いを嗅ぐ。

「この子はあずき。四年前から飼っているんだって」

「へえ、初めまして。あずき」

 学はあずきの紹介を終えると、玄関の引き戸を開けて慎を中に入れた。玄関の土間は細かい石が敷き詰められ、入ってすぐが居間だった。居間には畳が敷き詰められ、部屋の中心に囲炉裏があり、天井から自在鉤が吊るされ、障子と縁側が左右にあるのだ。その奥には台所があり、その左が風呂場で台所と風呂場を挟んでトイレがあった。

今の奥にふすまと階段があり、そこが二階への入口であった。二階には左右に部屋が三つずつあって両親は階段近くとその隣、学は階段の内側の真ん中で、美鈴の部屋はその右隣りであった。上を見上げると、天井の梁が見え、屋根の裏側がわかるのだ。

 学は慎に自分の部屋の左部屋に案内した。部屋の戸はみんな障子で中はどの部屋も五畳間で、壁側に布団を入れるふすま戸の押し入れと床の間、障子戸の反対側は明かりとりの欄間と障子窓がある。慎の部屋は何もないが布団は用意されていた。

「今、お菓子と飲み物持ってくるから」

 学は台所に行って慎に出すお菓子と飲み物を取りに行った。慎はその間に障子窓を開け、そこから明峰村の景色を見てみた。

 遠くには緑の山と青い空、どこの田畑にも真ん中に家があり、家によって育てる野菜や穀物は違うが、大人も子供も老人もせっせと農作業をしていた。時々、何かの鳥が飛んでいく姿が見られ、慎は田舎の清々しさに見とれた。ふと、自分の部屋の真下のカブ畑で麦わら帽子に米子おばあちゃんと同じ臙脂のもんぺを身に付けた人が腰をかがめて作業している姿を目にした。

「あれ、久子(ひさこ)伯母さんかな?」

 慎が窓から久子伯母さんらしき人を呼ぼうとした時、学が楕円のお盆に麦茶を入れたグラス二つとしょう油せんべいと瓦せんべいを長方形のお皿に乗ってやって来た。

「慎、お待ちどお」

「あ、早いね。どうもありがとう……」

 その後は二人でお茶を飲んだり、せんべいをかじったりとしておしゃべりし合った。

 学は村内の小学校に転校して、仲の良い友達が三人できた。村の学校は一学年に一クラスしかないため、運動会やマラソン大会や合唱コンクールといった校内せいで競い合う行事がなく、また人数も少ないためクラブもなく、学は近隣の村の共同少年サッカーチームに入っている。

「て、ことは……美鈴さんも中学校が一クラスしかないの?」

「うん。姉ちゃんの中学校もね。姉ちゃんは村の青年活動グループの芝居・人形劇団白サギ座に入っているって。ぼくは弟なのに、姉ちゃんが本当は楽しいのや面白いのが好きだったなんて気づいてやれなかったなぁ……」

 すると、学の部屋に一匹の子猫が入って来た。二十センチぐらいの大きさで、顔はあどけなくしっぽは長く、毛の色は全身が赤茶色のトラネコである。

「あれ、この家、猫もいたの?」

「うん、二ヶ月前に米農家の人からもらったんだ。名前はミィ助。ミーミー鳴いててオスだから」

 ミィ助は慎のひざに頭をこすりつけてきた。

「あはは、学くんと間違えているのかな」

「いやいや、誰にでもこすりつけてくるんだよ」

 二人は笑い合った。慎にも仲の良い友人がいく人がいて、近所には二年前から顔なじみの山代夕日(やましろ・ゆうひ)もいるが、みんなにはみんなやりたいことや就きたい仕事といった夢を持っている。慎だけである。将来の夢が見つかっていないのは。それが慎の現在の悩みであった。

「ねえ、学くんにはあるの?」

「ん?」

 慎は思い切って学に訊いてみた。彼の将来の夢を。

「将来の夢とか……やりたいこと……」

 慎の質問に学はあっさりとした口調で答えた。

「ぼくはもうやりたいこと、すでに見つかったし、将来の夢もあるし」

「えっ、何?」

 慎は内心ショックを受けながらも、訊いてきた。

「もうたくさん勉強しなくていいことと、塾に行かなくていいことと、スポーツがやれたこと。このままおじいちゃんの農業を受け継ごうと考えているよ」

「……」

 九ヶ月前までは学は教育ママの久子伯母さんの教育方針によって、休日も朝から夕方まで勉強づくし、塾通いの生活をしていた。成績はさほど良くないのに、かえって悪くなる一方であった。そこで同じ顔に背格好の慎と生活を三日だけ取り換えて、勉強しなくていい方針の慎のママの元で、勉強した方がいいのかなという気持ちに入った。豊彦おじいちゃんがぎっくり腰で倒れたのが原因で、貞晴伯父さんが会社を辞め、実家のある栃木県の農家を継いでから、ハードスケジュールの勉強から逃れることができた。田舎に来てからは今までの四分の一の量で勉強が済んだ。

 それどころか田舎の学校では町の学校と違って、勉強が遅れており、学は転校してすぐの期末テストで初めて四年生で七十点以上を全教科で採れたのだ。持ちおrん中学も同じで、美鈴にいたってはみんな八十点以上で、理科は百点だったという。

 貞晴伯父さんが農業家になってからは学と美鈴も農作業をしなくてはならなくなったが、塾に行かされるよりはまだ良かった。最初は戸惑っていたけど、夏休みに入る頃には市場に出す形と色のいい野菜と見かけの悪いB級品の分け方も雑草取りも水やりも種をいつまくかも覚えられた。

 学が慎に農家に来てからの話をしていると、米子おばあちゃんが慎の泊まっている部屋に入ってきた。米子おばあちゃんはもんぺから抹茶色の着物と白いかっぽう着に着替えていた。

「慎くん、学。六時半になったら食べるよ」

「あっ、はい」

「はーい」

 慎が空を見てみると、太陽が西に沈んで山に隠れるようになっていた。